かつて『ライブドア』事件にまつわる一連の騒動を、西部邁がこんな風に切り捨てていた。
「メディアのホリエモンバッシングも、『変化』それ自体を好む改革主義に根付いていると思います。メディアがホリエモンを持ち上げたときは、面白い若造が出てきたという『変化』があり、バッシングも、調子に乗っている人を叩きつぶすという『変化』です」
平成十八年(2006)一月二十五日(水)産経新聞「現象へ」西部邁さんに聞く ライブドア事件 「上」より。
政権交代の騒ぎとそのあとの凋落とを見ていると、どうもこのくだりを思い出すのだ。
民主党が喝采のなかにあったとき、世間は、是非も根拠もかなぐり捨ててともかくも「変えることが大切なんだ」という風潮にあった。
異論は認めない、という思考ストップ、というか思考怠慢、思考放棄を猛々しくも謳歌した。
マスコミがそんなキャンペーンを張ったせいで、そちらの方が居心地がよかったと。要はそれだけのことに過ぎない。
嘘のようなアホな話だが、その頃勤めていた闇生の職場では経営者が「時代は民主党なのに」と自民党に投票した部下を陰で罵っていたのを覚えている。
その根拠はついに聞かされなかった。
今のこの追い風に慢心するなよ、的な視点で現状は見守られていると思う。
んが、
慢心への警戒は有権者にこそあるべきではないのかね? とも思う。
連中を活かすも殺すも有権者次第なのだ。
タダで授かった権利を、タダがゆえに使い捨てにしていやしないかねと。
「元来、ライトは(福沢諭吉がそうしたように)『ことわり(理)をはか(権)ること』ですから、権理と記されるべきもので、したがって『道理にもとづかないような利益』をめざしてはならぬ、ということになるはずです。」西部邁「無念の戦後史」講談社より
そこへきてネットで投票ですか。
政治を左右するのは、それを支える有権者には違いありません。
我々が利を権ろうとするならば、彼らも私腹のためにそれを優先することでしょう。
利は理に基いてこそ。
元来、理想とは、そういうことなのでしょう。
☾☀闇生☆☽