居合わせた全員がその瞬間――、
おもわず瞠目していた。
丘の上の団地の外装工事。
その足場組みに伴うケービの勤務中のことである。
作業から居住者の安全を守るために配置されていたあたしは、その少し前から、軽やかな足音がたどたどしく階段を下りてくるのに気づいていた。
が、
それもつかの間だ。
空色の真新しいランドセルを背負った女の子が、わっと中庭に駆けだしたのである。
あたりを警戒していたケービ員と現場監督の見守るその丁度中央に盛り上がった小山の頂上。
そこに女の子は風のように駆けあがるや、ジャンプした。
つづけてそこでスピンする。
スピンする。
スピンする。
ジャンプ&スピンを繰り返して、真新しいスカートの、その裾の広がりを自ら確認している。
「もおお。待ってって言ったでしょ」
遅れて母親が現われた。
目を奪われていた大人たちは、そこでやっと我にかえり、そっと笑い合う。
入学式か。
東京近郊の子どもたちに、このたびの有事はどこ吹く風だろう。
むろんそこに他意はなく。
ならば新しいスカートとランドセルに、ついはしゃいでしまう純な心に、不謹慎などという概念すらあろうはずもない。
ばかりか、それがせめてもの救いでもあるわけで。
不肖闇生には八つ離れた姉がおり、信州に嫁いでいる。
その長女が、今年社会に出る。
震災時は親もとを離れて関東にいたので、あの喧騒を少なからず味わう羽目となった。
次女はこの春に進学のために上京する運びとなっており、この有事に子どもたちを巣立たせる親の心境たるや、どうしたってネガティヴに傾きがちであり。
そんな不安感いっぱいのメールの返信に、あろうことかこの闇生はずけりとこうのたまったのであーる。
うらやましい。
これは歴史に残る一大事でしょ?
その壮大な復興物語の同世代人として、
もしくは当事者として、
主体的に関わることができるのだから。
関わるしかないのだから、うらやましいではないか。
らくちんか、
そうでないか。
それすなわち幸福か否かには決して直結しないのであり。
そりゃあ、一筋縄にはいかんよ。
Aボタンの連打だけでクリア出来てしまうようなシロモノであろうはずもないと。
宮崎駿が、
かつて『もののけ姫』を作ったとき、こんなことをのたまっていた。
これからを生きねばならない若者たちは、
モノやら環境やらを湯水のように使っていた前時代の、
言いかえればバブルの、
つまりが我々の、
のっぴきならないツケを払わされることだろうと。
ようするに、生まれてきたときから返済なのだ。
マイナスからのスタート。
それを、主人公アシタカが受けた呪いとして表現したと。
なりふり構わず森を焼く製鉄集団に追われた動物神は、怒りに狂い、ついにはタタリ神となってアシタカを襲った。
森を敬い、森に生きるアシタカに、そもそも罪はない。
さて、
本当の物語というものは、これから始まるのだ。
始めるものなのだ。
午後、
入学式を終えた女の子が帰ってきた。
背負っていたはずの空色のランドセルを、なぜか子猫のように抱きかかえている。
誰にも触らせない、
あたしだけのもの、といった風情。
それを見守るおっさんたちの視線から匿うようにして、駆け去っていった。
被災地の子どもたちは、それどころではあるまい。
などということすら、知るべくもないだろう。
けど、
近い将来、彼らはどこかで必ず交わるはず。
直接的にしろ、
間接的にしろ、この災いの申し子として、
同時代人として、
身に受けたこのたびの傷を、
ようするに呪いを、共通言語として。
決してネガティヴには解釈せずに、
あたりまえに受け入れて、同胞としてスクラムを組むはずだ。
なんせ、有事からの出発である。
こわいものなし。
どうだ、
うらやましい、だろ?
そんな憧れの未来は、
ひるがえるスカートに感じたような、ちっぽけな仕合わせが基点になっているんだ。
☾☀闇生☆☽