じゃあなにかい。
タコさんウィンナーも、りんごのウサギさんも、パンダにしたおむすびも、食べ物で遊んでるから駄目というのかい。
桜でんぶのハートマークも、白米のど真ん中にずどーんと紅一点、梅干しを押し込んで日の丸弁当にすんのも、駄目なのかいと。
お寿司だとかの仕切りに使われているなんか草に見立てたっぽい感じの緑のギザギザもかい。
じゃアンパンマンはどうなんだ。
食い物がマントつけて飛び歩いて、カレーをびゅうびゅう吐き出してんのまでいるぞ。
駄目かい。
駄目なのかい?
ほおお。
んなら、ご飯もおかずも汁物も全部いっしょくたに袋詰めにした弁当で来い。
三食点滴で過ごしやがれ。
……とまあ、
遊び、とおふざけについて。
遊びとは、無駄のたしなみである。
文化はこの無駄というものに宿るものであるらしく。
お辞儀も、服飾も、作法も、季節の行事も、つまりはそういうことで。
そんな膨大な無駄のやりくりで、あたしらは日常の退屈をなんとかやりすごしているわけ。
考えても見て、
食べ物を無駄にするなというくせに、スイーツなんか、存在そのものが遊びではないか。
栄養学的には、どうなの?
糖分の摂取がどうのこうのとのたまうのなら、砂糖食っとけばよいのではないの?。
後付けでその効能を言うのも、野暮というものだろう。
他方、おふざけは、おふざけではないのか。
その場かぎりの行きずりだ。
そこで遊ぼうとするひと工夫が、あるかないか。
おふざけでなく。
重要なのはそこらへんなんだよなあ。
つらつら。
追記。
そうか。
遊(アソ)びと、弄(モテアソ)びの違いか。
んで、
食べ物を粗末にするなっ。という大人の常識が強固であったからこそ、志村けんのスイカの早食いとか、鶴太郎のアツアツおでんからのぉ投げ合い、というのに痛快さがあったのかもしれぬなあ。
要するに『常識と非常識』の関係が『緊張と緩和』としてちゃんと機能していたと。
そんな『日常と非日常』を行き来できたと。
かつて早食い番組が流行ったころ、連中がステーキを手づかみで貪りだしたのには、さすがに引いたものなあ。
笑いもなかったし。
美学もなかったし。
技術(芸)も感じられなかった。
案の定、中坊が真似して死者が出て。
というところにきてギャル曽根が現われたんだったね。
あれ。
話がずれてきてる?
動画サイトにアップされる、たとえば「メントスで何々してみた〜」みたいのは、どうなんすか。
ほんとにみんな愉しんでるんでしょうか。
ネット自体、刺激の叩き売りで、すでに麻痺した世界だから、せいぜい半笑いでクリックってとこでしょうか。
という感想も単にあたしがすかすかに老化しちゃったからで、若い人たちはああいうのに「腹いてえ腹いてえ、やめてやめてぇ、苦しいぃぃ」てなことになってんのでしょうか。
お笑いのライヴなら、爆笑で会場がゆれるようなことになってんでしょうか。
総じて、日常がすでにうす〜いうす〜い毒の中にいるようで、そこでいくら毒舌的な芸を繰り広げられても、盛られても、こちらの耐性の方が勝っちゃってるような。
最近、ちゃんと笑ってます?
☾☀闇生☆☽