石川ある著『2019年中央ヨーロッパの旅 そして2020年ニヒル牛旅の本展*1』手製本 読了
西荻窪 ニヒル牛『旅の本展』通販にて購入。
信頼の『ある本』。
今回は二つの時空を行き来する。
ひとつは2020年2月末から4月半ばまでの日本。
もうひとつは2019年10月のブタペスト。
前者は世界中がコロナの渦に巻き込まれていく状況のまっただなかにあり。
その東京は西荻窪に店を構える経営者(著者)の進行形の心情である。
これを『コロナ中』の世界と呼ぶならば、
後者は強い著者が弱いだんな(亭主、石川浩司)を連れ歩いた中央ヨーロッパ旅の回想であり、『コロナ前』の世界といえる。
例年なら、著者は友人たちと新たな旅をにぎやかに敢行していたことだろう。
そしてそれは手製の旅本となって、あたしたちはいつも通りに『ニヒル牛』の店内で手にしたに違いない。
しかし今年は違った。
旅程がコロナの猛威に掻き消された。
よって代りに記憶の蔵から引っぱり出されたのが著者曰く「あまりネタもないなあ」と回想されるブタペストから始まる旅なのであった。
『コロナ中』の著者は、対岸の火事と思われたこの災難が、いずれ此岸にも飛び火することを誰もが予想していた段階においてなお後手後手にまわる政府の対応に焦燥し、怒り、呆れ、刻々と拡大していく被害に脅え、店舗の経営に悩み、またスタッフや契約作家たちを慮っている。
コロナそのものの威力も、正体もまだ解明されていない段階にあって、店舗営業を続行するか否かの判断には、文面からも苦渋がしとどににじみ出ていた。
他方『コロナ前』の著者。
これは回想された旅であるのだが、やはり、コロナのことなど、そして世界がこんな風になってしまうだなんてことは微塵も予想していない。
坊主頭のだんなとの二人旅。
ひと昔前なら「フルムーン」などと美化され、宣伝されていた夫婦水入らずの旅である。
この時点での最大の不安はむろんコロナなどにはなく、すぐに体調をくずすだんなだけであった。
そしてその初日。
ブタペストに到着したその瞬間に、この著者の旅への思いがたったひと言で吐露されるのだ。
「また、遠いところにやってこれたんだ」
ずどん。
著者にとっての旅というものを、言いつくしたひと言ではないか。
この一行を目にした瞬間、あたしの脳裏では先日ここに感想を書いた平田真紀の旅本のことが炸裂する。
ある本(著者石川あるの本)にとっての『旅』とは遠くへ行くことであり。
これに対して平田本の人気作のテーマは一貫して「家からすぐの旅」にある。
つまりある本ではできるだけ日常から離れた世界へと出かけて行く旅で。
対して平田本は日常に近いところに旅(非日常)を見出すという見立ての旅。
なんと好対照か。
これを芭蕉式の旅、
と正岡子規式の『旅』、
とは言えまいか。
平田真紀が歌人であるから、他の歌人にたとえるのは礼を失するのかもしれないけれど*2。
子規と式の音が重なってるのも、なんかきまりが悪いのだけれど。
そのうえで「言えまいか」などとドヤ顔してよいものかもわからんのだが*3。
好対照なのはご理解いただけると思ふ。
して、面白いのは、
「あまりネタもないなあ」と著者自身が書き記した旅であったにもかかわらず、読者としては十分に楽しめる旅であったこと。
これは交互につづられる『コロナ中』との対比が効くからでもあるのだが。
語られることでやっと映画は映画になる、という押井守ののたまいにならうのならば、
旅というもんは、思い出されることで初めて旅になるのではないかと。
回想され、文章化されることで、旅は旅になったのだ。
それも『コロナ中』から見た『コロナ前』であるだけに美化してしまいがちなところを、きちんとヨーロッパにおける東洋人差別についてキリリと書き締めてみせる、そのスパイスの妙よ。
でもやっぱあれだな。
ジョシがうまいもん食って楽しんでいるのを、こうして文章で読むのはやっぱ楽しいな。
現実に飯屋から飯屋へと連れまわされると、へとへとになりそうだけれど。
ごっつぁん。
一気読みした。
でこれは、間違いなく歴史に残るこの惨禍の記録としても、読み返すことができると思ふ。
過去作の感想はこちら。
yamio.hatenablog.com
闇生