カッション。
批判でも意見でも提案でも、議論は活発にせよと。
そういう割には、10万円を寄付する云々は黙ってやれといふ。
うん、
ニッポンジンですね。
寄付を公言するのは日本人の性分にあわないのだ。
それをかっこつけて『 美学 』といっちまおうか。
つまりが恥の文化なのである。
海外では寄付を公言すること、そしてそれを称賛すること、寄進者の名前を残そうとすることは別に珍しくもない。
銅像を建てたり、
たとえば大学の研究室にその寄付した人の名前がそのまま冠されたりする。
くりかえすが、それは日本人の性分にあわないのだな。
どちらが正しいという問題ではなく。
けど、
寄付したいと考えている人が、はて、ではどこにするのが確実なのかと思案するとき。
こまっちゃうんだ。
震災のときもそうだった。
寄付はしたい。
けど、どこが安全で確実なのか、調べるのには根気もいるし。知識もない。
どこもかしこも良心的で。
と感じさせるところがまた怪しくも思える。
ああ、めんどくさい。
その『めんどくさい』の敷居の高さが、寄付率の低下にもなっていやしまいか。
むろん詐欺も横行する。
連中はその秘匿したがる心に付けこむ。
恥の文化であるがゆえのコソコソ寄付なのだから、仮に騙されたとしても、それもまた人は恥じて口をつぐむからだ。
ならば恥をしのんで云ふ。
あたしゃここに寄付したよ。こういう手法で簡単だったよ!的な著名人やSNSでの公言は、震災のときに非常に参考になったのだ。
それをよってたかってみんなで検討してくれる。
そいつをまた参考にする。
それでこそあたしのような知識のない者でも比較検討の選択肢とすることができるのである。
だからコソコソしないでいただきたい。
タイガーマスク運動のような匿名の善意行動こそが、日本人の美感に合うのはわかる。
そりゃあたしだって大好きだ。ああいう話は。
そしてその手の話はなぜか贈られた側ではなく、贈った側の立場を想像してカタルシスを味わうのだな。
けれど病院に匿名で市販のマスク届けたり、人目を忍んで現金をポストに投げ込んだりしたところで、効率の良い寄付にはならんだろうて。
追伸。
台湾から大量のマスクが寄付された。
その荷箱には
『 Taiwan can help 』
『 台湾日本友好 』
と大書されてある。
しかも台湾政府が記者会見で、世界中に配布するとまで発表してのことだった。
これを黙って寄付しろ、という人はさすがにいないし、誰もそんなこと思わないだろう。
どうしてだろう。
もらう側となると「だまって寄付しろ」とは思わないのは。
むしろこれ、だまって送られたら困るよな。
ということは、黙って寄付するのは、もらう側の気持ちを考えていないからではないのかな。
まさかこういう話にまで黙って寄付しろとは言わんだろ?
それこそ日本人の性分に合わない。
台湾に感謝。
感謝。
闇生