壁の言の葉

unlucky hero your key

個。

 BLUE GIANT SUPREME
 現在5巻目。

 バンド、という概念がある種の結束したものになったのは、ロックからでしょう。
 たとえばベーシストが脱退したとか新たなメンバー加入とかがことさらドラマティックに取りざたされるのは、ロックからでしょう。
 それも看板をチャック・ベリーやエルヴィスといった個人名ではなく、ビートルズストーンズといったバンド名にするようになった時代からでしょう。
 それはロックにおいて個人技が『少なくとも』メインディッシュではなくなったことの証左であり。
 技術やコンセプトに重きを置くようになったプログレ期にあってさえも、比重は集合体としての『そのメンバーの組み合わせならでは』にあったわけで。
 その顔合わせにしか生み出せないバンドの色そのものが、ロックの楽しみどころということでしょうか。
 どうでしょうか。


 たとえば、
 マイルスのバンドの誰が抜けたとかは、少なくとも人気ロックバンドほどには騒がれない。
 脱退や解散ライヴでファンが号泣するなんて風景もまずない。
 (そもそも個人を冠としてそこに『バンド』や『トリオ』『クインテッド』などを付けて看板にするのがほとんどだし。)
 人気プレイヤーのバンド復帰に狂喜するファンもいない。
 ジャズの場合『包丁い~ぽん♪』よろしく、楽器とウデひとつで渡り歩くのが常だからだ。
 一期一会。
 それはインプロビゼーションという、その時その場限りというのがジャズのジャズたる大前提だからであり。
 しかも、オリジナル曲というものにロックほどは固執しないからで。
 むしろ腕はスタンダード曲で試し合うし。
 聴き比べるし。 
 オリジナル曲というものは自由を生むこともあるが、オリジナルに固執したり、もしくはファンに再現を求められることで表現の足かせにもなるからだ。
 

 余談だけれど、
 有名バンドがライヴのアンコールで代表曲をやるお決まりに、それを感じてしまうことがある。
 ないすか?
 ストーンズがアンコールで『サティスファクション』や『ジャンピング・ジャック~』やったりとか。
 YMOが『ライディーン』やったりとか。
 レディヘが『Creep』とか。(一時期封印してたけど。)
 VanHalenが『Jump』とか。
 サービス精神はうれしいんだけどね。
 こっちはあんたらがやりたいことをやりたいようにやるのを見届けたいのに、と。
 片想いがしていたいのよ。
 振り向かんで結構。
 だいたい演るほうも飽きたでしょうに。
 どうよ。
 どうなのよ。こんなあたしのめんどくささは。
 あの手のサービスが慣例化してしまうと、あたしなんかは興ざめしてしまって、お付き合いの拍手がしんどくなる。
 ドSな意外性をおくれよと。
 
 

 てなわけで、
 バンドに束縛されることを嫌うドラマー、ラファエルの言い分は正しいと思う。
 けど、何かを感じたんでしょうな。
 束縛されることを嫌うことに頑なになってしまっては、それはそれで不自由なのだし。





 闇生