「たい」の引力。

何かに感動したい。
多かれ少なかれ皆そう思って日々アンテナを張っている。
意識しているかしていないかの違いはあるのだろうけれど。
くわえて軽いものから重いものまで程度や質のちがいも様々にあって。
何か面白いものはないかなとネットを漁るときとか、うまいもん食べたいななどは日常的な「したい」で。
そういった手軽な感動と感動のあいだに、ともすればそれ以上の何かがないかと求めますわな。どうしても。
しかしその動機をあらためると、感動したいのはもちろんなのだが、できれば感動させたい、驚かせたい、笑わせたい、という気持ちが底にあることに気付く。
理想は感動させることで感動し満足したいのだ。
若い頃はその思いが強烈で、ともすれば行き過ぎて奇をてらいがちになるもので。
むろん猿真似などでそれが達成できる見込みは薄く。
といって思いつき程度でオリジナルなモノができるほど甘くもなく。
その衝動が強い場合、あがいた挙句に、お痛した動画をアップしたりしちゃうのだろう。
それがケツの青さというやつでもあろうし。
そう意識できるようになると、もっと深い感動をやりとりできないかと模索したりして。言うまでもなく感動するよりも感動させることのほうが難易度はより高いわけであり。そうこうしているうちに、「させたい」の気持ちをいつしか鈍化させてしまうのだ。
受け身になる。
それが大人になるということでもあろうし。
落ち着くということもであり。
なによりらくちんで。
あるいはそれが老いるということなのか。

したいよりさせたい。
感動させたい。
驚かせたい。
笑わせたい。
泣かせたい。
感心させたい。
喜ばせたい。
他者の感受性をちょいとくすぐりたい。
深いところを刺激したい。
自己承認欲求それ自体はなにも悪くない。
悪くない。
その欲望は絶やさず、暴走させず、
しぶとく胸の内に育て続けることが肝心なのですぞ。




そのステージ(舞台)を職場や家庭といった日常に見いだした人は、不幸になることができません。



闇生