道はつづく。
西調布駅入口をすぎて中央道の高架をくぐり直進すると、飛田給。
飛田給入口交差点は親子連れで混雑していた。
このすぐ北側を走る現甲州街道沿いにアジスタがあるので、どうやらそこで何かイベントでもあるらしかった。
あたしゃかまわず旧道を直進して飛田給薬師堂へ。
ここには『行人塚』がある。
伊達藩士であり医師でもあった松前意仙が薬師如来に帰依し、各地の仏閣などを廻拝したのちにこの地に如来像をつくったそーな。
で、そのあと自ら墓穴を掘り、端座叩鉦結三昧の果てに、入定なされた。
手塚の『火の鳥』にも描かれた、あれと同じですな。
穴の底で経をとなえつつ鉦をうち、
それが聞こえなくなったら死んだということだぞと。
伝説のように言い伝えられていたそうだが、その後、遺骨が発掘されて真実であったとわかったそうな。
先を急ぐ。
とすぐそこにまたも常夜灯。
だいたいこの街道沿いの常夜灯や一里塚というのは、もとあった場所から移設されている場合が多いですな。いまのとこ。
社殿なんかもそうだ。
理由は多摩川の氾濫がたびたびあったからで、それから逃れる必要があったからである。
ちなみに常夜灯の燃料はろうそくか菜種油だったそうな。
それを当番制で見張り、管理すると。
当番になった日には、緊張するねえ。
常夜灯は道の灯台的な役割が主なのだけれど、解説によれば火事を祓う意味もあったというね。
はい次。
西武多摩線の踏切を横断するまえに、ちょっち寄り道。
北側を走る現甲州街道と旧道とのあいだに『旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕』がある。
掩体壕(えんたいごう)、というのは戦闘機を敵の目から隠すためのいわば目隠しで。
屋根がなく、ネットを張ったうえに迷彩をほどこすパターンのと、
この写真のようにコンクリートでがっちり屋根をつくるパターンがある。
調布飛行場を中心に周辺には無数の掩体壕があったという。
この飛田給のは、戦闘機・飛燕を格納していたのではないかと言われているそうな。
戦後は子供たちの遊び場として町に溶け込み、
以降、当壕は保全・管理され、ちいさな公園のオブジェのごとき様相で生き延びていたのでした。
常久公園のベンチで仮眠。
なんせ、あづい。
30分ほどうとうとして、ちょいと道を南にそれて常久一里塚を確認。
日本橋から七里(28㎞)とある。
旧道にもどる。
大嶽電機。
いかにも廃墟マニアが喉を鳴らしそうな物件ではないかと。
街道沿いにこんなに大胆なロケーションをほこっているのだ。有名なんでしょう。きっと。
そして、またしても道を逸れる。
大嶽電機をすぎてすぐ。
武蔵国府八幡宮の参道が南進を誘うのだな。
閉ざされてました。
長い長い参道を歩いた挙句、本殿だかなんだかは、閉ざされていました。
入れません。
境内ではボーイスカウトらしき一団がなんか強そうなテントをいくつも張って、和気あいあいと卓を囲んでいたので早々に退散。
暗い森の中ということもあいまって、その結界感がよろしいですよと。
世の中は、見られないもの、知れないものがあるというところを愉しむ。
だはは。
じゃあ、この辺で。
続きは、またこんど。
☾☀闇生★☽