表現する者が、その携わった作品についてそんなにあっさりと謝罪してしまうんだと、驚いた。
つまりその程度の覚悟で表現してしまえるのだなと。
『表現』は『伝達』とちがう。
ある程度その解釈を受け手にゆだねるところに表現や芸術のおもしろみがあるわけで。
そこに真摯な遊びがあるわけで。
となれば諸刃の剣となって、作者の本意とは違った解釈をされることもあるだろうし。
刺激的で切り口が鋭いほど、当然人を傷つけることもあるだろうし。
しかしそれは作り手の手を離れたあとのことである。
ひとたび発表すれば、作品はもはや作り手の私物ではない。
もしもそれが深く心にのこる力を持つならば、同時に傷つける力もあるということだ。
ましてやこの時代、誰も傷つけずに表現しようなどと……。
ひとつもサムズダウンをかまされてないものなど、どれだけの価値があるというのだろう。
表現が権力にこびないのは大切だが、その抗うべき強大な力の主は時代とともに変化する。
そこを見極めないと、表現者ともあろうものが、知らずに尻尾を丸めて力にこびていることになっていたりするのだねえ。
☾☀闇生★☽