たとえばこのたびのデヴィッド・ボウイの死去の報じかたにも、
そのよそよそしさに、
テレビっつーもんの偏りの加減があらわれてるね。
いや、そう言うとまるで「偏向報道」的な批判に聞こえるだろうけれど。
そうではなく。
テレビのポジションというか。
性質と言おうか。
性向が適するのか。
決して正論ではないし、大論でも、ましてや社会の代表でもないという。
じゃ、どのあたりをうろちょろして道草くってんのかなと。
赤ちょうちんにつられて一杯ひっかけてんのか。
パチ屋でものぞいてんのか。
漫喫で満喫してんのか。
図書館に入り浸ってんのか。
生前ほとんど接触のなかったヤツが、のこのこ葬式にだけあらわれて、周囲にのまれて号泣して見せるだなんてのは白々しくてとてもできないのだし。
つまりが、ここで緊急特番とか追悼3時間スペシャルをぶちたてることはできないわけでね。さすがに。
でもまあ、それはそれで、
それぞれの案件ごとに事情通とやらを用意して体裁上は泣いて見せるんだろうけれど。
……という位置。
物事と世論の関係は「群盲象を愛でる」である。
対象はつねに多面体。
誰ひとりとして全貌は、見えていない。
届けられる声は、それぞれのポジションからの声に過ぎない。
今のテレビを思うと、
歳の暮のアメ横の雑踏で何かに気を取られているうちに親とはぐれて茫然となった子供の姿が、なぜか浮かぶのだな。
☾☀闇生☆☽