壁の言の葉

unlucky hero your key

 陽気がいいので、近所の公園のベンチで読書。
 中島らもの『空からぎろちん』を読む。
 これといった遊具もほとんどなくべンチがふたつあるばかりの公園で、ひとり。
 少しして高校生くらいのカップルが隣のベンチに座り、おしゃべりとキスを愉しみはじめた。
 せっかくの美人としての素地の良さを、言葉の汚さが台無しにしているような女のコ。
 もったいない。
 んが、よくある光景だ。
 なにも国営放送のしゃっちょこばったアナウンサーのような言葉遣いをしろとは思わない。
 くだけるにもくだけかたというのがあると思うのだな。
 やはり美しきものには適切な距離をおくに限るのだ。
 いや正視せずに、そのあたりに気配として感じておくだけでいい、というてめえのいやらしさを自覚す。


 言葉の汚さは、大概においてテレビとネットの影響なのだろう。
 テレビがつまらなくなったことの理由のひとつに、テレビが特別ではなくなったことがある。
 毒も聖も詰め込んだ、非日常的なものではなくなったのだ。
 本当に酔っぱらって赤い顔でクダをまくだけの番組や、本音トークとやらの日常やワタクシの垂れ流しに、スペシャルなものを感じることはほぼ無い。
 研鑽された技術や感性とは真逆である。
 ドラッグも不倫も恋愛も経歴詐称も、未成年の飲酒も、日常にありふれている。
 特別な資格はいらない。
 技術も能力も才能もいらない。
 日常にありふれているものを食べに、わざわざ外出するのもどうなんだという話である。
 とりわけ若さがもてはやす過激さや毒は、他の媒体にもあふれているし、世間にはそれらに感化された人であふれている。
 注意力をもって見渡せば、その大部分がカップ麺やコンビニ弁当のようなとりあえずの間に合わせとさほど変わりが無いとわかる。
 それでなくては何が何でも駄目、というものでもないのだ。
 はて、 
 テレビのなかにスペシャルなものは、いまどのくらい残っているのだろうか。


 今にして思えば、若さというものは模倣のなかでしか活きなかったし、そういう人生の季節でもあって、そのひとつとして義務化された勉強があったりするわけで。(いや歳くってもその繰り返しなのだが。)
 感覚が未発達だから、良かれ悪しかれ刺激が強いものを良しとする。
 大味なものばかりを好む。
 そんな興味本位でじゃんじゃん詰め込んじゃうお年頃で。
 それがあとあと経験と試行錯誤に煮込まれてくれば、ひょっとしたらオリジナルなものができあがるのかもしれないという期待も憶測もそっちのけで貪欲に詰め込む。
 ゲロ吐いてでも喰う。
 テレビに呆けている子供の顔をみればわかる。絶賛ダウンロード中ではないか。
 それゆえ親はその最低限のセキュリティ対策と更新に勤しんできたわけで。
 それが大人の役割でもあり。
 その反動がきいてこそ毒が毒として作用していた。


 なるほど、あのころもテレビのなかの倫理にからむ大人たちはいた。
 うざかった。
 良し悪しは簡単には言いきれない。
 んが、己の衝動なり善悪や自由や欲望と思い込んでいる言動も、なにがしかの影響下にあるのではないか。ということをせめて意識くらいしておいて損はなかろう。 
 などということを隣のベンチのしみったれたおっさんが思っていようとは、高校生カップルめ、想像だにしないであろう。
 しかしまあ、あれだ。
 キスが長い。
 雑談から脈略もなくおっぱじまり、また脈略もなく雑談へと戻っているようである。
 先生や友人の悪口やハマっているお菓子の話題から、唐突におっぱじまるそのキュー出しは、なんなんだろう。
 と他者にはわからんところに関係の妙があるのだけれど。
 この状況をたとえば脚本におこしたとするならば、不条理だわな。
ハッピーターンの粉だけ舐めてから食うとか、あいつマジ邪道なんですけどお」
「はっ。死ねよ」
 で、ぶちゅゅゅゅゅゅう、ある。
 



 はやくどっかいけよ。
 ちらちら見てんじゃねーの? あのじじい。
 まじくっそだせえんだけどお。
 死ね。
 どっかしらないとこでこっそりと、死ね。




 はい。
 んなことを思うほど、実際は意識されてもいないのであろうが。
 ひきつづき連日、例の素人オーディション番組『The Voice』の動画を観ている。
 プロが選び、
 その選ばれた当人が先生を選ぶというところに面白さを感じているのかもしれない。
 その点では、かつて欽ちゃんが司会をして大ヒットした『スター誕生』と同じスタイルである。
 ネットを通じて一般からの投票で合否を決める番組もあるが、どうもそっちはつまらんのだな。
 そのむかし、一部の米国映画では、結末を二種類用意して試写会をした。
 でどちらの結末がいいか、観客に投票させてそれをもとに本編の最終決定をしていた。
 (『ブラックレイン』では、松田優作が死ぬバージョンも存在した。)
 観客には、自分が何を欲しているか、そうそう自覚できるものではない。
 主導権を握りたくて、それを欲するのではない。
 圧倒されたいのだ。なにかスペシャルなものに。
 観賞直後に嫌悪感や疑問を抱いた作品も、しばらくしてから解決したり印象が逆転したりすることは、間々あることだし、そこまで余韻を残すものを作るべきでもある。
 それが『評判』という最強の宣伝になる。
 すっきりしずきると、それでおしまいになってましうもの。



 ともかく、
 このハマり様はたぶん、上記のような次第で、なにかスペシャルなものを期待しているところにぴたりとチャンネルがあってしまったからだろうと思われ。
 残ってしまっていた隙間に、テトリスのブロックがすとんと収まって連鎖がはじまったような。
 現在の日本でこういう番組を、とつい考えてしまうが、無理だろう。
 結局はイロモノを競う見世物小屋におちてしまった『イカ天』の再来になるか。
 せいぜいアイドル・オーディションが関の山か。
 音楽が、商売として成立することが年々困難になっているからね。




 風が強まって、ページが踊らされる。
 近いうちに、職場の大先輩が自作の小説を読ませてくれるという。
 愉しみ。
 おかえしに、こちらも読んでいただくつもりでいることは、あとから伝えた。
 面喰ったことであろう。
 態のいい押し売りである。
 歌を聴いてくれ、とたのんだら、じゃあ俺のも聞いてくれと交換条件をだされたようなものである。
 つまらなかったらどうしよう、という不安と面倒くささが渦巻いていることだろう。
 せめて彼の感受性をひっかくことくらいはできないかと……。



 




 追伸。
 イカ天
 たまが残ったのは、たまたまではない。
 見世物の部分を取り除いても、音楽がよかったからであるし。
 それあってこその見世物であったからだ。
 エンタメは所詮は見世物である。
 見世物でなくてはならない。
 見世物は、特別であってこそ成り立つ。
 一般的な恥辱やワタクシ事の晒しものであってはならない。
 
 
 
  




 ☾☀闇生☆☽