壁の言の葉

unlucky hero your key

ヨシアシ。

 『いい人』かどうか。
 そんな物差しを持ち歩いている人たちがいて。
 けど、その『いい』は、どうやら自分にとっての都合のよさであるらしく。
 とりわけそういうタイプの人たちは『正義感』とやらに鋭敏でおられるのだが、しかしその正義とやらの物差しもひじょーにアヤシイ。


 たとえばチャリでいった現場の交通費を電車通勤であったとして請求している人がいる。
 他方で、正直に実際に使ったぶんを請求している人もいる。
 『いい人』基準でいけば後者が『いい人』なのだろう。
 んが、
 前者の日常を観察するとだ、コンビニで買い物したときに発生する釣り銭はかならずレジ横の募金箱に一切合財ダンクしていたりすることがあるのだな。
 しかもそれが『正義』発進の行動ではなく単に「小銭がめんどいから」という、あろうことかボランティア精神からほど遠い『粗雑』がゆえの、『無精』がゆえの行動だったりする。
 さらには、近場の現場については交通費の請求自体をしない人もあったりする。
 訊けば、会社のふところ事情を慮ってのことだという。
 社内で架空請求がまかり通っている現状への慨嘆が、そうさせている。
 いわば義憤である。彼なりの。
 会社はおまえのことなんとも思って無いけどねっ。
 これもまた彼なりの『正義』あるいは『正しさ』なのだろうなー。


 むずかしいんだけどね。
 子供が知らない大人についていってしまうのも、その場そのときの『いい人』基準に従ったまでのことだとするならば、いわゆる大人といわれる人たちだって、生涯いち未熟者であることからは決して逃れられないのだから、歳を重ねたところでせいぜい出来ることと言えば『猜疑』することと『行動しない』こと。よーするに保身だ。挑戦をしないこと。それを一般に老化とよぶのだな。
 けど、あたしらのよーな未熟で迷える子羊たちは、牧羊犬におびえ、従順である以上は安寧を日々貪ることができるわけで。
 仮にその牧羊犬が犬の皮をかぶったオオカミであったとしても、それを『いい人』と思い込みさえすれば、おそらくは安心して食べられていくことができるわけで。
 見知らぬおっさんにある日『金の斧か銀の斧か』と問われ、嬉々として正直に答えてみれば、設問はどちらで死にたいかの選択であったりするのが人生だ。
 






 ほんとかよ。






 おっさんを勝手に「いい人」にみなしたのは、自分である。






 あたしとしては、そんな物差しがめんどくさい。
 いい人かどうかなんて、物差しの置き方次第でどうとでも変わるし、そもそも人は多面体であり、それぞれが盲目だ。
 
 
 

 身近な人を話題にするたびにその人が「いい人」かどうかを、
 もとい、
 その人を「いい人」であるととらえる自分こそが「いい人」であるというアピールをする癖のある人に出くわして、面喰ったので以上を書いたまで。
 ああ、めどくせえ。
 悪口の前後にその人の『いい面』の但し書きをつける自分って「いいひと~」アピール、めんどくせえ。





 そんなわけで、友だちがいないという現状は、だれからも「いいひと」判定をされていないということなのです。
 はい。
 すんません。





 これから夜勤ですんません。









 帰ったらまた飲んですんません。






Dr. John: Right Place Wrong Time
















 いつかあなたのオオカミになれますよーに。





 ☾☀闇生☆☽