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もうあれからひと月も経ってしまったわけですが。
生徒と担任のあいだでやり取りされた生活ノートの記録を目にした当初、書かれた文言だけであれこれ言うのはどうしたものかと思ったものである。
つまり行間が、あまりに膨大だろうと。
なんせふたりは日常的に顔を合わせる生徒と担任という関係だ。
だから、ノートに吐露された悩みへの対応が、すべてノートの上だけですまされたとは限らないわけで。
それは生徒側からのアクションについても、いえるわけで。
たとえば、ノートでの深刻さとは真逆の感触を生徒は周囲に抱かせていたかもしれない。
ましてや思春期だ。中二だ。
変わりやすさは山の天気どころではないだろう。
ひと晩寝て、大丈夫になったのかな、と。
いやむしろ、双方がノートだけで済ませていたなら、それも問題なわけで。
ええい、会っちまえ。となった結果の行間ではないのだろうか。
けど、会ったところでどうなんだろう。
ノートには吐露できても、ナマ身が相手では素直になれず、胸中裸になれず、投げ掛けられる前向きな励ましの言葉をハニワのように薄く笑ってやり過ごしてしまうのではないだろうか。
ましてや「親にも言えない」事情を仮に一方的とはいえこうまで赤裸々に告白ができる相手ということは、それなりに生でのコミュニケーションがあった関係性でもあるわけだ。
たとえ片思い的に天秤が釣り合っていなかったとはいえ。
いや、はなから釣り合うはずはないのである。
一対一の個人教師ではないのだから。
ついでながら「親にも言えない」を基準にするなんて、中学二年の思春期まっ只中の子について語るにしては、我ながらズレていると気付くのだな。恥じるのだ、あたしなんかは。
親だから、言えないのだ。言いたくないのである。
同時に考えるのは、自分がこの担任のような立場だったらどうしたのだろうと。
結果論からあれこれ言うのは容易いさ。
当初はこう思ってもおかしくはない。まっとうに胸を貸すような対応をしては、かえって問題を当人のなかで深刻化させてしまうだろうと。
どこ吹く風とばかりに、視野を広げさせるのが賢明だと。
よくいるでしょ? 他人のネガティヴを前にすると「ちゃんと食べて、しっかり眠れば」的なやっつけをする人。
あれもあれで理にかなっている部分もあるのだ。
社会に出ちまえば、そんな親身になってケアしてくれる存在なんて、まず無いからね。
自分をケアして、自分でやっていくしかない。
ましてや教師はこの問題ではどこまでいっても第三者である。
解決の糸口は作れても、決着は当人にしかつくれない。
仮に、第三者に解決のカタチを作ってもらったとしても、それは何らかのチカラが作用してのことで。
コトの本質はなんら変わらない。
思春期の心は、かえってそれを屈辱と見なすのである。
なぜ親に連絡しなかった、とヒトはいう。
親に言えないからこそ吐露したのに、聞いた担任がそれを親に報告したとしたら、どうよ。
辛うじて生まれたノートでの関係性は壊れるだろう。それは唯一の、いわば外への扉だ。
ならば担任はそれが永遠に閉ざされるのを恐れるだろう。
思春期の心は、そこに告げ口の臭いを嗅ぎ取ってしまうに違いない。
結果「先生だから言えたのに」と親にも担任にも心を閉ざしはしまいかと。
自分は敵と見なされ、生徒は孤立をより深めまいかと。
……とまあ、つらつらと考え続けている。
行間は深く暗いのである。
その行間に想像をはたらかせずにノートを見れば、単に片思い関係のメールにしか読めない。
重い問題は、スルー。
よくて当たり障りのないリアクション。
読み直すと、メール世代だな、とは感じた。
なんであれ、いじめた側が自分が加害者であると自覚することを望む。
心に深く深く傷を負え。
☾☀闇生☆☽