おおかみこどもの雨と雪、テレビでやっちゃうのね。
感想をかきあぐねているうちに、このタイミングでくるとは。まったくぅ。
あたしゃ長らく地デジ化難民のままなので、ノーマークでした。
以下、休憩中に現場からガラケーで書くので簡単に。
獣姦の問題はとくに、鶴の恩返しなどの古典が避けてきたクダリであり、そいつをある一定の水準のリアリティのなかで表現しているので、嫌悪感を抱くかたも少なくないのではないかと。
もののけ姫やぽんぽこでさえそこは迂回したわけでえ。
しかしそのもののけ姫やぽんぽこが「近代もしくは人間に追いやられる自然」という構図を前提としていたのに対して、本作は少子化による人口減の未来が意識されているのか自然側の未来が悲観的に表現されていないとこがミソかと。
ともかくとして、ガラケーでこんだけの文を書くのはまどろっこしい。
ああかったるい。
後日、気が向いたら詳しく書こうかと。
でもまあ、ネタバレとしてひとことだけ書かせて。
↓
ここであえて人間とおおかみという異種間で表現されることごとは、異文化間の比喩として捉え、そのうえで「帰化」というキーワードを念頭において観れば、たちどころにもろもろが解けていくんじゃありますまいか。
まあ、「異化」の基本的な読み解きかたなんでしょうけれど。
どうすか。
んじゃ、
現場にもどるぜい。
闇生。
追記。
たとえば野田秀樹の芝居『赤鬼』では、違うものを食べる、外見が違う、言葉が違う……、とたかだかそういったことで人はそのヒトを鬼と噂するのだ。
少なくとも「人で無いもの」と見なした。
その「鬼」と意思の疎通をする「あの女」は、鬼とヤッた女として差別を受け、処断されようとする。
考えてみれば、西洋の昔話に悪役として出てくる「森の魔女」たちもまた、賤業*1がゆえに人里離れてひっそりと暮らす被差別民であったりするわけで。
たとえば人種のるつぼであり、同時に人種のスクランブル交差点でもある米国での差別状況を鑑みれば、肌の色を超越した夫婦関係というのは、この映画を決して『絵空ごと』と笑い飛ばせないような歴史があるわけであり……。
いわんやこの国をや。
かろうじて幸いなのは、宗教宗派間の闘争が、あくまで世界史的にはだが、それほど過酷ではなかった点か。
そんなこんなで、
この映画から感じるあなたの嫌悪感の正体も、あるいは感動の正体も、そこんとこが作用しているのです。
単にシングルマザー子育て奮闘記、として読みとくのもアリでしょうが、その我が子もまた、異人種・異文化からすれば、エイリアンなのです。
巣立ちとはつまり、そういうこと。
差異という差異にまみれた世の中に、解き放つということ。
何処に行っても、結局は差異がある。
まあ、そんなこんなで、どーかよろしく。
☾☀闇生☆☽