この日の元請け側には、はじめてみる顔があった。
若さからいって、新入社員なのだろう。
朝礼では司会進行を任されていた彼だが、やたら咳き込んでばかりいた。
その咳をひとりごとのように詫びつつ、しどろもどろに話す。
おそらく、過度の緊張のせいなのだ。
(実際、咳はこの朝礼のときだけだった。)
自意識過剰におちいって、まわりが見えなくなっている。
客観的に状況を、物事を、見渡せていない。
咳き込んだことをひとり詫びて照れる仕草に、あやういまでの未熟が露呈していた。
その様子を離れて見ていた所長。
注意事項を鵜呑みに伝達するのを見かね、朝礼の最中にもかかわらず、横合いから叱責する。
「ちがうだろ」
んが、
自分の発言の番になると、一転してこれみよがしに温和にふるまう。
この日の所長は終始その繰りかえしだった。
新人を叱責する怒号と、職人とかわす温和で硬質なトーンの使いわけ。
新人は目の前のことを処理することにばかり気をとられる。
失敗すると叱られ、萎縮して、さらに視野を狭める。
本質ではなく、所長の『叱り』にばかり意識がいってしまう。
挙句、作業ではなく所長を意識するようになる。
だから状況を見誤ってしまう。
この日はついに、叱る所長の目の前で『自分の腿を殴ってくやしがる』というアピールをするまでになってしまった。
ボクハコンナニガンバッテイルノニイ。
しかし所長は冷たい。
「こっちゃおまえの演技を見にきてんじゃねえんだぞ」
「なんだその自分にあきれちゃいました、みたいなリアクションは」
そのとーり。
くやしそうな顔をしようが、地団駄を踏もうが、事態は何も好転しない。
そんなのはあとでこっそりひとりでやっとけばいい。
眉間にしわを寄せたところで苦悩したことにはならないし。
いくら表情だけよがってみせても、名ギタリストにはなれないのであーる。
木を見て森を見ず。
教え方として、
ひと呼吸をおいて、
まず森をみせることから仕切り直すべきではないだろうか。
心機一転。空想のヘリコプターにでも乗せて、上空から見渡させるのである。
ひとつひとつの作業の段取りだの確認だのという行為は、慣れた人間からすれば基本中の基本なのだろう。
ひとつの大きな目的に向かう流れが見えているから、それぞれの関連性も見えている。
たとえるなら、
ダシをとる時間のあいまをみて野菜を洗って切っておくとか。
納豆をかきまぜて小皿に取っておくとか。
それ以前に、朝食の時間を見はからって前の晩に米を研ぎ、炊飯器のタイマーをセットしておくとか。
さらにさかのぼれば米を買い、野菜を選ぶところからその朝食の支度は始まっているのであーる。
で、んなこた慣れた者にはあたりまえだ。
常識だ、という。
けれど、なれない者にとっては、ひとつひとつの作業の関連性が見えてこない。
個別に理解はできても、ひとつながりとして把握できていない。
だから「飯っ」と言われて初めて米櫃をのぞいて「あ。米がありませーん」となってしまう。
それと所長。
この方、いつも風邪マスクをつけておられるのだが。
効果的に叱り(教え)たいのならば、マスクをするべきではない。
表情というものは、思っている以上に膨大な情報量を含んでいるのだ。
雄弁だ。
新人は、現場の人間関係もまだ浅い。
あうんの呼吸やアイコンタクトだけでチームワークが働く関係性には無い。
「なんど言ったらわかるんだ」
と叱りとばすくらいなら、伝え方を省みてはどうだろう。
下手なんだよ、教え方が。
ようするに、なんど教え方を誤れば自覚するんだ、というハナシ。
少なくとも賢くは無い。
お釈迦さんは相手のレベルに合わせて話し方を変えたというよ。
言葉足らずなうえに表情まで省かれた言葉というのは、案外、効率が悪いものなのであーる。
メールですらみなさん顔文字やらなんやらで足りない表情を補うものでしょ?
追記。
考えよう、と意識して考えるだなんて、なかなかできないものである。
考えよう、考えよう、が念仏になってしまう。
ノーミソが硬直していく。
考えることを考えてしまう。
んなことより、なぜだろうと。
どうやったらうまくいくかなと。
どうなってんのかなと。
んで、
頑張ろう、と心構えをすると、往々にして頑張りどころを誤るものである。
具体的にもっと走ろうとか、
練習しようとか、
ちょっと休憩をけずって下調べを済ませておこうとか。
質をもうワンランク上げようとか、ちょっとだけでいいから具体性を作った方がいい。
頑張りは大切だし、ときには心の杖になるとおもうが、頑張ることに頑張ってはいけない。
☾☀闇生☆☽