壁の言の葉

unlucky hero your key

 隣室の人が出て行った。
 夜勤あけ、遮光カーテンを閉め切って寝ていた昼過ぎに、ノックの音で起こされる。
 出ると、大家であった。


「隣の人、出てっちゃったんですよ」


 はあ。
 ひいては共有廊下に二台ある洗濯機の、どちらがその隣人のモノなのかと、その確認であった。
 訊くまでも無い。
 一目瞭然、あたしの部屋側にあるのがあたしの洗濯機で、隣室側にあるのが隣人のモノである。


「じゃ、こっちは処分しちゃっていいんだ」


 とひとりごちて大家は去っていった。
 処分?
 それを大家がやらされているってことは、もろもろの生活用品を置き去りにしたってこと?
 人間だけが、消えた?
 いや逃げた?
 廊下に出たついでに大家たちが出入りしているその隣室をのぞく。
 部屋中に背丈ほども積まれた書籍の山々が見えた。
 何も片付いていない。
 華やぎのかけらもない。
 おもえば不思議な隣人で。
 かたくなに顔を合わそうとはしなかった。
 帰宅時も出勤時も、共有廊下に居るときはこちらの気配を察してそそくさと部屋に逃げ込んでいた。
 何度かすれ違って挨拶をしたが明瞭な返しはなく、印象がバラバラで、同一人物には感じられなかった。
 複数でシェアしているのかとまで思ったことがある。
 がその確信もない。
 窓に室外機も無く、窓付けのクーラーも無い。
 にもかかわらず真夏でも閉め切って、窓辺のスタンドの明りだけを点けていた。
 すりガラスでカーテンも無いので、山と積まれた書籍類の影だけは見えていた。
 共有廊下に置いた古びた二層式洗濯機は、ときどき使っていたが、洗濯物を窓の外に干すことは一度も無かった。
 ついにテレビの音さえしたことがない。
 共有のゴミ収集所で鉢合わせることもない。
 共有の廊下はその隣室のキッチンに面しているのだが、換気扇など、めったに使用している気配は無かった。
 火や包丁を使う音がしたのは、もう何年も何年も前だった気がする。
 極々たまに、宅配便屋が訪ねてきていた。
 そして不在通知が何日もドアに挟まったままにされてあった。
 そういえば先日、めずらしく隣室が騒がしかった。
 はしゃいで話す女の声が、うるさかった。
 異性の気配など、初めてである。
 そして、去ったと。


 住居として使っていたのではないのかもしれない。
 たとえば仮住まい。
 あるいは書斎、勉強部屋として使っていただけかもしれない。
 よそで同棲でもしていて、生活の実態はそこにあったとか。
 出張の多い仕事だったとか。
 思い起こせば、彼のまえにその部屋を借りていた人は、夜逃げで消えた。
 そのときは住居を別にする大家に頼まれて、あたしが隣室を確認したのであった。
 連絡が取れないから、と。
 訊ねてみると応答が無く、施錠も無く、部屋には何も残されていなかった。
 状況を説明すると大家は驚愕して、それを知ったのである。
 なんか、そういう不運続きの部屋なのだ。
 いまどき木造モルタルのガス風呂アパートである。
 訳ありか、はみだしちゃった奴くらいしか住まないだろうて。


 壁ひとつを隔てただけのすぐそばで、何年何年も生活していた名も知らぬ誰か。
 確かに同じ風景を見、
 匂いを嗅いで、
 同じ階段を使って生活していた誰か。
 顔も覚えていない。
 こちらの顔も覚えていないだろう。
 それがふっ、と居なくなった。
 ただそれだけのことである。



 せっかくこのボロアパートを出て行ったのである。
 境遇なり生活になんらかの変化があったのだろう。
 良いように転べばいいね、と思った。




 ☾☀闇生☆☽