年内最後の現場。
この日も警備兼役者のベテランさんにいろいろとお話を聞かせていただく。
かつての会社のこと。ベテランたちのこと。
それから表現活動をする警備員たちのこと。
あたしゃ警備・誘導の質(つまり仕事)にその人の表現活動での作風が現われると思っている。
人とナリ、と言い換えていい。
雑な奴は雑だし、細かい所に執拗なやつは作風も偏執的だ。
しかしその役者さんは、それを即座に否定されて、いかに自分を客観視できているかであろうとおっしゃられた。
この会社で警備業に勤めるかたわら表現活動をする同僚たちのなかで、これまで最も感心したのが某ミュージシャンのかたなのだそうな。
彼はその他の兼業者たちとはレベルが違ったそうで、そのステージには心底圧倒されたという。
「レベルちげえわ」と。
しかし、そのかたの普段の警備はそれほど質の高いものでもなかったらしい。
自分で対処できない事態に陥るとすぐに白旗を振り、尻尾を丸めてベテランたちに助けを求めたというのだ。
ようするに、彼は自分の力量を客観的に把握していると。
できること、できないことの。
これはかつて坂本龍一が「プロとアマの違い」についての質問に、どれだけ客観的に自分を見られているかの違いと答えたことと完全に重なるかと。
仮に「感情を込める」というところに精根こめて演技をしても、その基準や程度は実に曖昧で、所詮は主観の箱庭のなかでのことに過ぎない。
モノ作りの現場での「一生懸命作りました」も然り。
客商売なら最終的な判断は買い手だろうし。
ただ、だからといって「なんでも屋さん」になりさがっても、どうだろうか。
自己を捨ててまでしてよいものか、どうか。
職人の下働きや小間使い、はては手もと手伝いまで嬉々としてやる警備員がいる。
先方からすれば安くて便利な奴で、自然リクエストも集まる。
先方はありがたがるし、なので当人たちも「達成感」に酔っていることが、傍からみていてもわかるほどだ。
ただし口の悪いベテランたちはそういう連中を「本番までやっちゃうヘルス嬢」と陰で罵るのであーる。
なんせ同僚ヘルス嬢からすれば『商売あがったり』だもので。
同じ現場に居合わせれば、普通に職務をまっとうしている優良警備員はすべて怠けものになってしまう。
本番サービスに味を占めてしまった先方さんも「いつもあの人はやってくれたよ」と露骨に本番行為を要求してくる。
これもまた客観のピントの差ではないのかと。
小間使い警備員は現場しか見ていない。
何が必要で、自分は何を現場に提供できるかを。
それはある意味正しい。
しかし業界全体のことや、その職務をはなれた行為でもし事故が起きた場合のことまでは念頭にない。
同じ料金で本番までやっちゃえば喜ばれるんじゃないかとだけ思っている。
なりふり構わず、喜ばれることにのみ働きがいを感じている。
プロ意識というのは、そういうところにはないはずではないのか。
松本幸四郎が、その娘松たか子にしたという役者としての心得のアドバイスが思い起こされる。
「役者たるもの何でもできなくてはならない。しかし、何でもやらなくてはならないわけではない」
つらつら。
☾☀闇生☆☽