町山智浩著『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない*1』文春文庫 読了
「諸外国が」とか云ふ。
「近隣諸国が」とかも云う。
ある種の日本人たちが祖国を批判する際に使うこの抽象的な言いまわし。大概においてその言葉の指す国は「中・韓」に限定されている場合が多い。
とりわけこの二国を「被害者」と見なす場合に多く使われる。
んで、あたしゃ思い出すのだ。
やはり日本人が、日本人やその文化、慣習、伝統、もしくはそこに運用されている制度、国柄を指弾する際に使う慣用句が、これだったと。
「だから日本(人)は駄目なんだよ」
から始まり
「その点、外国ではねえ云々」
と理想のサンプルを列挙する流れ。
ここでの「外国」の正体はなんのことはない、往々にして「アメリカ」一国であったりしたものである*2。
たかだか数年の米国留学から帰って来た人たちが口をそろえてのたまったものだし。
ましてやその留学中の行動範囲を思い合わせれば、とても「アメリカではね」などとデカイことは言えないはずなのだが、とにかく、のたまった。
彼の地を踏まないでも、カウチポテトよろしくハリウッド映画にとっぷりと脳を洗われて、のたまった。
曰く「自由」でござると。
曰く「平等」でござると。
この考え方の根っこの深い深い部分には「古さは悪」という近代主義がこびりついているわけであるのだが。
彼の国には伝統といえるレベルのものが皆無なのであるから、そりゃあそうなるでしょう。
じゃあその素晴らしき人柄、文化、慣習、制度の集大成であるところのアメリカという国そのものは、どうなのよ。
どんな差別があって、
どんな戦争をして、
どんな政治で、
してそれを支持するのはどんな民度なのよと。
米国文化の広報として機能していたハリウッド映画がかつてほどの力を持てなくなり、いまや日本のアニメの方が勝っている部分もあるので「信者」のようになる人は往時ほどいないと思われるのだが。
んでも根強い。
あの国に希望とか、未来とかを抱いちゃう人たちが。
だもんでそこにこの人が役割を持つのであーる。
アメリカに在住する映画評論家、町山智浩が。
映画評論家とあるだけに、どの話題もその切り口の根拠のひとつとして必ず映画を例にあげているところが光っている。
そう。
映画にはその国の実情がどうしても表れてしまうものだし、その意味において、観客の現実とどこかしらリンクしていないと、ウケない。
なのでちゃんと読み解けば(ウラ読みも含めて)そこに、それを作った国の実情を見て取ることができるのだ。
これの書かれた時期は、オバマの大統領選が繰り広げられていた頃である。
マケインやヒラリーとの激戦を勝ち抜いたオバマは、こののち米国史上初のアフリカ系アメリカ人の大統領となる。
その歴史的な就任演説は、当時日本でCDにされて販売された。
売れたらしい。
ワイドショーでは、それを愛聴する人々が取材されていた。
曰く「英語の勉強になる」とか。
曰く「心が高揚する」とか。
そんな背景も、ついでに記しておく。
あ、そうそう。
本書で挙げられた映画を順に観ていくのも、おもしろいと思う。
中でも、問題定義や告発系のドキュメント映画は新鮮でしょう。
こういうのに触れる機会というのは、そうそうないはずだから。
追記。
かつて、同性愛者に対する日米の温度差みたいな話を、勤務先で同僚に投げかけられた。
曰く「アメリカではもっとオープンに認められている」とな。
ハリウッド映画とアメリカの連続ドラマをこよなく愛するやつだったので、さもありなんというところだが。
いえることは土壌が違うということ。日米では。
たとえばゲイパレードを見て、ああ開かれている、と感じる人もいるかと思うが、反面そうまでしなければならないほどの差別なり偏見があるということではないの?
運動化しなくてはやっていけない切実なものが。
『ミルク』なんていう映画は、その偏見や差別に命がけで闘ったひとの話でしょ?
日本でゲイを公表しても、むろん偏見や差別を喰らうことはあるでしょう。
悩んで、自死を選んだ方もいたでしょう。
けどよってたかられて命を狙われるなんてこと、極めて稀なんじゃない?
アメリカ映画の題材として取り上げられることが多いと言うことは、それだけ多くの抑圧があるということでもあるよね。
もし社会的に当たり前だったにら、題材にならない。
ましてやドラマティックにもならない。
根底にキリスト教があるか、ないか。そこが日と米では決定的に違う。
かつてこの町山智浩がTBSラジオの『ストリーム』という番組で言っていた。
性差の問題も、米国から日本を見ていると、日本の方がよっぽど自由だと。
たとえばはるな愛とか、美輪さんとかが、仮にも国営放送のゴールデンタイムに、例えば紅白とかに、当たり前のように出演してるでしょ。
アメリカでは考えられないことらしいのだ。
国民的な一大イベント、スーパーボールのハーフタイムショーにそういう人たちは出演できないと。
……などなど、ちまたの女装ブームもからめてその同僚に言ったら、
「あの人たちはみんな女のかっことか、仕草とかするじゃないですか」
だから、そんなのが認められてもオープンとは言えないと。
あたしゃ戸惑いつつ聞き返した。
「え? 異性装のゲイが世間に認知されているのだけでも、えらい大らかな国柄だと思うけど」
すると彼、
野郎丸出しの奴が「ゲイ」として活躍しなくちゃ駄目なんだと。
そうなのか。
駄目なのか。
聞きながら、なんでこいつはこうまで熱弁するのかと。
引いたあたしのその引き加減こそが、偏見かと。
まあいい、その辺のことも、書かれてます。
ともかく、
性差も、貞操も、キリスト教的な土壌をふくんだ米国文化の流入とともに、その概念が広まったように捉えていますよ。
あたしゃ。
結婚指輪なんつーのも、あちら産だものね。
戦国も、江戸時代も、日本は実におおらかだった。
☾☀闇生☆☽