フツーに考えて○○だと思う。
というのたまいには『普通』という平均値、つまりが多数派という民主主義下での絶対権力を笠に着た横柄さがあるわけで。
しかもここでの多数派。往々にして刹那的・直感的な感覚にすぎず、歴史的、時間的な累積にたのむことをしないわけで。
ましてや根拠も無く、感覚だけでしれっと己をその『正しさ』側に置くあつかましさの臭気たるや、よろしくない。
美しくない。
なにより実際のところ考えていない。
むろん、価値にはその拠って立つべき土台が必要ではあるのだけれど、フツーという得体のしれないやっつけだけを根拠にされたんじゃたまらないのね。
せめてそこにささやかな恥じらいくらいは、添えようぢゃないかと。
私は思う、
となぜ言えない?
ちなみに「○○しか考えられない」というのたまいも怪しくないか?
考えられない、は何故ああまで偉そうに吐き出されるのか。
選択肢をそれ以上創出できないという、己の思考力のギブアップ宣言であるにもかかわらずだ。
そもそも考えていないし。
考えようともしていない。
ならばここにも恥じらいがあっていい。
いや、恥じらうべきではないだろうか。
とフツーに考えて、それしか考えられないのであーる。
☾☀闇生☆☽