ここ数日の覚書を、つらつらと。




◎「先生ってのはクラスのなかの刑の執行人なんだから、ちゃんとしてなきゃだめなんです。それをPTAだの教育委員会に頼むからがっちゃがちゃになっちゃうんです」立川談志


 その昔、景気が良かった頃は、能力性、出来高性で稼げないなんてアホクサ、とされた。
 決まった賃金の昇給階段を、淡々と歩むだけの公務員人生に背を向ける人が多かった。
 つまりそれより稼げる可能性があったのね。
 公務員の取り分がちっぽけに見えた。
 けれど、その頃に「生涯の安定」を睨んで公務員になった炯眼な人たちもいたわけで。
 それが不景気になって能力性や出来高に陰りが出てくる。
 くわえて年齢もあるが。
 とたんに「あいつら汚ねえ」となった。


 孤猿、という話があって。
 この公務員や大会社に属して、いち歯車として生きるのが群れの猿で。
 そこから離れてたった一匹で生きるのが、孤猿。
 群れに属していれば、餌を探索する能力に欠けていようが、ともかくもそれにありつける。
 その群れがみつけた餌が、その日たった一個のリンゴであっても、構成員の頭数で割れば、わずかずつでもありつける。
 一方、孤猿は、取れた一個を自分だけでまるごと独占できる。
 けれど、その日餌を見つけられなければ、何も食べられない。
 景気の良かった頃、みんなこぞってこの孤猿になりたがった。
 いまになって群れを揶揄するのは、少なくともある種の羞恥心をもってするのが、マナーだろう。


 士農工商という身分制度
 その順位の理由を、かつてこんな風に教わった。
 商人を最下位にしたのは、江戸末期の困窮する士族が借金をするため、と。
 それも一理あるのかもしれない。
 けれどこうも思う。
 侍(公務員)は私の『利』に走って政策してはいけない。
 その代わり『名誉』が与えられる。
 無私であるべきものたちだ。
 一方、商人は『利』を追求するもの。
 すべきもの。
 その代わり、それは本来おおやけには恥ずべき態度。
 商人はこうべを垂れるのだ。
 武士(公務員)が私利を捨てて公理につくならば、建て前とはいえ、価値は上だろう。
 

 いま学校の先生がどれだけの給料をもらっているのか知らない。
 しかしかつてのように『聖職』という尊敬の目で見られることも無くなったのは事実だ。
 昔、学校の先生は偉かった。
 恐かった。
 それはつまり畏怖でもあった。
 いまや、カネもやらない。
 敬意もやらない。
 ただクレームにびくひくして、あたりさわりのないといったところだろうか。
 カネも敬意も大衆がケチって責任ばかりを押し付けたので、教師の質が落ちたのだ。
 安かろうぼろかろう、である。
 いまどき『清貧』をモットーとする聖職者など、ごろごろ居るはずがない。
 自分にできないことを他者に強いるべきではない。
 できないことをしてくれる人には、まずは敬意を示すべきだ。
 




◎好きな人が己をむなしくして、その好きな人、尊敬する人のことを話す。
 そこにその人と也が現れて、好ましく思われるわけで。
 「俺はすごいだろ」式の話は、いくら積み重ねても体臭の上塗りでしかない。


週休二日制で育った人。
 「カネが無い。カネが無い」と言ふ。
 出勤を増やして稼げばいいのに、そもそもその概念が無いらしい。
 飢えてでも休む。
 昇給したぶん、勤務を減らす。
 労働とプライベートを厳密に分けたがるが、だとすれば非常時には昼夜の隔てなく召集される消防隊員や自衛隊員をブラックと考えるのか。
 昔話したことがある消防隊員は、自宅でもうんこをするとき、あらかじめトレペをいくつも小分けに丸めて周囲に置いてから、すると聞いた。
 うんこ中に出動がかかったことを想定しているという。
 あたしの今の現場。そこまではないが、自動の警報メールで呼び出されることがある。
 しかし、若い社員の一部は、休日や自宅では社用ケータイを切っているらしい。
 公私の境界線は、ある意味方便で。
 厳密には地続きではないのか。






HUNTER×HUNTER
 休載問題。
 その理由について様々な勝手な想像や憶測がされている。
 けれど、思ふ。
 にしてもジャンプであると。
 メジャーリーガーであると。
 不謹慎だろうが、(いわゆる)障害者があれを描いていると考えたらどうか。
 現実には障害者と(いわゆる)健常者の境界線というのは至極曖昧なはずで。
 線引きはできない。
 けれど、どこかでそれをしないと社会が機能しないわけで。
 むろん双方を慮って、区分けされているのだろう。
 正常な言動と思える人でも、毎食後四時間も血まみれになって歯を磨き続けるとなれば、会社は勤まらない。
 それでも会社が、ひいては社会がその能力を欲しているのならば、使うだろう。
 (いわゆる)健常者が描いていると考えるからアンチは腹立たしく思うのであって、彼が(いわゆる)ある種の障害を持つのにもかかわらず、メジャーのマウンドに立ちつづけようとしているのだと考えれば、どうか。
 感動的ですらある。
 マウンド上の態度に問題があろうが、
 球が荒れだすと収集がつかないことになろうが、
 ともかくもメジャークラスの何かを持っているわけでしょ。



◎「酔い覚めの水、千両と値が決まり」
 志ん生が『へっつい幽霊』などに使う有名なフレーズ。
 談志は云う「酔い覚めの水のうまさなんてのは、水のきれいな日本ならではのもの」と。
 そして「国際的には飲めるレベルの水を、我々はトイレで使ってるんだからね。インドだとかなら飲めるレベルですよ、あれは」
 なんちゅう裕福な国だろう。
 『落語のピン 其の八「三人旅」のマクラより』


 去年の夏だったか、東京都のCMで公園の水飲み場の水をマイ水筒に入れて飲む、そんな奨励運動があった。
 CMを観て同僚が「うまいわけないじゃん」「冷たくねえよ」と嘲笑したが、彼、何かというと海外旅行にあこがれている。
 ……のを、思い出した。
 親元の中年フリーターだ。
 肉とお菓子とコーヒー牛乳しか摂取しない。
 鍋でも焼肉でも肉にしか手をつけない。
 ハンバーガーでもレタス抜きにするくらいの、そんな偏食家。
 牛丼のタレがしみこんだ玉ねぎが、ギリだそうだ。
 水分はもっぱら牛乳+コーヒー系のものばかり。
 勤務中に雪印のコーヒー牛乳を2ℓは飲んでいる。
 旅行はいつだって行けるのだろうが、東京の水道水が飲めない人に、どこの水が飲めるというのか。





◎「いい奴ってのは、自分にとって都合のいい奴をいい奴という」談志。
 『同「堀之内」より』


◎「はっ」と嗤う癖の人。
 いるでしょ。
 特にテレビを観ているとき。
 世間話でも。
 冷笑のリアクション。
 根柢に「くだらない」という世界観。
 みんな馬鹿に見えている。
 この「みんな」の平等感が、実は相対地獄の入口で。
 ニヒリズムの坂道を下っていく自転車である。
 嗤えば嗤うほど、自虐へと堕ちていくのである。
 これに抗うにはなにかしらの絶対性が要るのだが。
 手っ取り早く自身の優越感にすがれば、それはまた「みんな馬鹿」を助長してしまう。
 他者への『崇拝』は取扱いが難しいが、尊敬や敬意やといった心がけが予防薬にはなるはず。
 いや、なるんだ。


 ともかくも「はっ」のヤツら。
 これもまた中二病の一種なのだろうか。
 だとすれば愛すべき悩める人々ではある。



◎食品偽装。
 なんだよ。
 結局中国レベルだったのかよ。この国の飲食業。
 和食こそ世界に誇れる文化なのに。
 回転ずしも、胸張ってそういうネタとして出せばいいのに。
 それぞれの業界で、それぞれの職人の矜持というものが失せたんだね。
 いや売ったんだ。
 カネで。
 と、
 今のシールド現場を見渡して思う。


 これでまた煩わしい規制が強化されるのでしょう。
 
 


ローソン100店内にて。
 「言う事きかないと、昼間っから酒呑むぞっ」
 と息子を叱る父親の声。




 ☾☀闇生☆☽