壁の言の葉

unlucky hero your key


 自転車通勤の道すがら、いつも気になっていたものがある。







 サイクリングロードの土手から河畔の藪へとのびる一本の道。
 おおかた釣り人か、あるいは岸辺のブルーシートハウス居住者が踏みならしたものだろうが、どうだろう。この風情。
 ご丁寧に手すり付きの階段からフリーハンドの絶妙な曲線を描きつつ藪のなかへと消え入っている。この細々とした具合。
 かねてから胸の中の少年がその先を確かめたがっていた。
 しかしそれを大人の分別が、とりわけ蛇と蜂のイメージでもって執拗に引き留めようとする。
 どうせ予定の無い盆休みである。
 ならば、ままよとこのたびは少年にゆだねて踏みこんでみた次第でなのである。










 さっそく天道虫に歓迎され、
 バッタや蝶に導かれてたどってみると、さもありなん。藪に抱かれてぽっかりと丸い砂地が現われるではないか。







 秘密基地。
 少年はそんなロマンを口走る。
 中央には木。砂の上に影を落としていて。
 枝にくくられたカゴには漂流してきたのに違いない様々なボールが大切にしまわれてあった。
 その幹では、ほら出た。






 スズメバチだ。
 そらみたことかと大人が呟く。
 そっと後ずさりして、ぐるりと見渡す。
 道はここで行き止りに。
 つまり基地に通う者に踏みならされた道だったのだ。
 それにしてもなんと素敵な空間だろう。
 絵に描いたようである。
 広さは野球のダイヤモンドほどもなく、藪に丸く匿われて街の喧騒もとどかない。
 少年の時間をここで過ごす基地の住人達をしばし羨んだ。


 でかした。おまえら。


 たとえ、これといった遊びもせず、だらだらと、ぼうっと過ごしたにせよ、虫と草花に抱かれたここでの少年の記憶は生涯の宝になるだろう。
 留守中、お邪魔しました。
 とそこをあとにした。
 こうしてひとつのちっぽけな好奇心が成就されると、味をしめてしまうもので。
 芋づる式に面白いことに出くわすのではと、河に沿って踏みならされたほかの道をたどってみた。
 するとなるほどそこかしこにブルーシートハウスが見つかり、道はそれぞれの住居へと枝分かれしている。
 その分かれ道に差し掛かるたびに、少年がいちいち騒ぎ。
 大人が諫めてくる。
 そして少年に従って歩き進むと、やはり何かしらの人の痕跡に行きつくのである。













 河川敷の家屋もさまざまで、なかにはこうして門扉まで作って闖入者に警戒している家もあった。
 勝手に開墾して立派な畑を作ってしまっている人たちがかつて問題になったことがあったが。
 やはりこの多摩川のもっと下流のほうだったと思う。
 そこへいくと今回の散策ではそこまで大胆なものはない。
 河川敷には住まず、通いで耕作しているらしいおばさんは見かけた。
 猛暑のなか汗だくで、河の水を汲んだバケツを両手に、畑を往復していた。
 その、むき出しの警戒と、暗く閉じた面影。
 ただならぬ執念のようなものがあって。
 有体に言って、恐い。
 なので足早に藪の道を闇雲に突き進んだら、ひょっこりと土手下の広場に出てしまった。


 あ。お前。







 いつも土手の上から見かけていた白いのではないか。
 このブログにも数日画像をアップしていたあの猫たちのうちの一匹だ。
 はじめまして、と近くに腰をおろすと奴、
 気だるげに振り返り、
 やがてのっそりと近づいてくるはないの。








 おまえこの辺で見ない顔だな。と言わんばかりのふてぶてしさ。
 しれっと通り過ぎて木陰に場所をかえてまた寝てしまった。







 まどろみの至福を邪魔してすまん。
 目のまわりが腫れている。目ヤニを悪くしたのだろう。
 皮膚病もあるらしい。
 すぐそばにブルーシートの集落があるので、たぶん彼らに世話してもらっているのだろう。
 ほかの猫たちの姿はなかった。







 ふたたび藪をゆく。
 すると何もない、ただ踏みならされたあとの空間に出る。
 大きな木を中心にぐるりと。
 なあんだ。と引き返しかけて見上げると、







 たわわに実が成っている。
 なんだ、この実は。
 状況からみてここに通った人の目的は、この実ではないのか。
 けどこれ、ちょっと届きそうにない。
 食べられるのか、とあさましくもそんなことを考えたり。
 植物の名前にうとい自分が、うとましくなる。
 季節の木々や花々に詳しければ、きっともっと深みのある散策になるのだろうに。
 ただの『藪』が、奥行きを持つのだろうに。
 そこは所詮昭和のアニメ世代である。
 象徴としてのみどり、草花、森という記号的な背景画になじんで育ってしまった。
 と思いもするが、
 能や狂言の舞台美術としての襖絵も、日本的風景の象徴として、そしてまたその汎用性の高さからとりあえず『松』であったりしたわけで。
 自分から意識して見ようとしない限り、日常はそんな大雑把な記号に四捨五入よろしく均されてしまう。そんなことになっている。
 だもんで草花に詳しい奴、かっこいいと思うのだ。
 分刻みで移ろぎゆく先端の音楽シーンがどうのこうのといった知識よりも、そのスキルは時代の変化などどこ吹く風。
 強い。






 ところで今回の散策で幾つか恐い思いをした。
 ひとつは案の定、蛇。
 足もとの草の中をにょろにょろと逃げていく尻尾を目の当たりにしたとき。
 それとやはり秘密基地で出くわしたスズメバチ
 どちらも、こちらから故意に攻撃をしたり、不用意に近づかない限りは襲ってはこないはず。
 人に対して専守防衛の生き物である。
 けれど子供の頃、墓参りで父がとっくり蜂に刺された記憶がいまだにあって。
 山の傾斜の途中にあるその墓地に降りていく階段だった。
 あたしゃはしゃいで一段飛ばしに駆けおりた。
 父はそんな息子を後ろから叱って、一段ずつ降りてくる。
 蜂たちはその階段の死角に巣を作っていたのだ。
 あたしはたまたまその段を飛ばしていたらしい。
 しかし一段ずつ降りてきた父は、そのせいでしっかりと巣を踏みつぶしてしまうはめに。
 こちらに害意がなくとも偶然に恨みを買ってしまうことはあるのだ。
 それは交通事故のようなもので。


 ともかく、恐い思いはもうひとつある。
 踏みならされた道を進んだら、ふと直径がサッカーボールほどの黒い鉢が十個ほど並んでいるのが見えた。
 そこに緑色の植物の苗が植えられてある。
 おや、と思って近づこうとしたとき、その鉢植えのひとつに抱きつくようにしている男があるのに気づいた。
 その姿、妖怪小豆洗いのごとし。
 藪に埋もれるようにして鉢の中の土を世話していたようだった。
 彼は近づいて行くこちらの足音にすでに気付いていたのだろう。じっと睨んできた。
 青ざめた死体のような顔色。
 血走った目。
 こちらの会釈にもついに警戒を解こうとはしなかった。


 仕方なくそのまま通り過ぎてみたのだが、運悪くその道は行き止りになってしまう。
 引き返すとやはり彼は同じ姿勢のまま睨んでいた。
 そんな藪の中で身を屈めてこそこそ栽培しなくてはならない植物というと、まあ、アレだろう。
 鉢植えは移動させるため。
 栽培拠点を常に移動させて摘発を免れようというのだろう。
 口封じに襲われるんじゃないかと思って、しばらくは振り返り振り返り歩いた。
 なんせ人気のない藪の中である。
 こちらはひとりもんで、誰に言づてするでもなく出て来ているから、ここで消されても誰にも知られない。
 関係者に聴取しても、足がかりすらつかめないだろう。
 失踪。
 蒸発。
 などと妄想が次々とわいてきて自然、早足になった。




「悩みなんか持ってないようでしたけどねえ」
「最後に会った時もいつも通りでしたよ」



 言わずもがな、胸の少年はそれをおもしろがっている。




 ☾☀闇生☆☽