声を奪われたやむにやまれぬ抗議の自決と、
あるいは自裁と、
捨て身の犠牲愛としての自死的行動と、
消極的な逃避としての自殺を、十把一絡げにしないほうがいい。
それらの善し悪しは、ひとまず置いて。
それらの共通する一面にしか目をくれない、そのいっしょくたの、やっつけ加減に、まずは生死への軽視があるのではないのか、と疑うこと。
同様に、その色眼鏡は『生』のいっしょくたにも作用してしまうに違いないから。
怯惰に浸り、ぬくぬくと生き延びようとする凶悪犯の生存と。
あるいはついでに生きているような自堕落な生と。
他者や家族や社会のために、なんらかの形で自己を犠牲にしつつ奮闘する生と。
それらの優劣はひとまず置いて。と念を押しつつ自問する。
今現在の自分の生は、同じか? と。
ひとまとめにそれらをすべて平等な価値にしてしまうのが、やわらかな絶望のはじまりだ。
風邪の引きはじめだ。
優・劣という二元論ではなく、
多種多様で、かつ曖昧な部分をふくみながらも、ゆるやかに価値の相違がついている。
そう。八百万の神々の順列のように。
そのおおらかさこそが、古来この国のお国柄なのだと、
信じろっ。
めっ。
☾☀闇生☆☽