古典落語の『野ざらし』にはこんなマクラがつけられる。
その昔、東西の馬鹿の番付というのがあったそうで。
西の大関が「醤油を三升飲んで死んだやつ」というんですな。たしかにこれはお世辞にも利口とは言えない。
それに対する東の大関がなんと「釣りをする人」という……。
やる人からすればこたえられない楽しさがあるんでしょう。
んが、
やらない人からしてみれば、釣れるか釣れないかわからないのに日がな一日糸を垂らしてるなんて馬っ鹿みたい、とこうなる。
とりわけ、釣りをしている人を後ろからじっと見ている人なんてのがいるもので。
ともすれば二時間も三時間も、釣り人のうしろからじっと浮きを見ていたりするんですな。
さすがにそんな馬鹿な奴ァはいるめえ。と言われて曰く「ホントだっての。俺は最初からずっとそいつを見てたんだから」とな。
とまあ、馬鹿の世界にも上には上があるという、ネタに入る前のお決まりのサワリといった具合。
先日、ふとこれを思い出したのはYoutubeでとあるゲームのプレイ動画を観ていたときのこと。
この状況はつまり、釣りをする人を後ろから見ている人だよな、と気付いたのだ。
で、さらに気づいた。
かつての同僚が無類のゲーム好きで、その話のなかにやたらとこういう言い回しが出てきたことを。
「兄の後ろで観てた」
このゲームってどうなの? と聞くと、自分はやったことはないが兄がプレイしていて、それを後ろから観ていたことがあると。
なにかっていうとそう言う。
かちゃかちゃプレイしている兄のうしろから二時間も三時間も観戦に終始する弟の絵が浮かんで、当時はそれが可笑しかった。
背後霊かと。
いい歳こいた野郎同士が、
あほかと。
なにやってんだか、と。
でもいまや「ゲームセンターCX」なんて番組で、他人がプレイするのをその他大勢が「うしろから観てる」のが当たり前のご時世。
先にも書いたが、プレイ動画なんてのをアップする奴も奴だが、それを観る奴も観る奴だ。
なんなら観られるのありきで実況プレイしてるのも少なくないわけで。
踊る阿呆に観る阿呆、を地で行くのである。
同じ阿呆なら、ときても決して踊らずに、やはり観ることに終始するのであーる。
リスクも労力も惜しんで、観るだけ。
大衆主義とは、つまりが、そういうことだ。
街頭テレビのプロレス観戦だ。
スキャンダルを肴に、義憤の酒をあおっては酔う政界ワイドショーだ。
鳥だ、飛行機だ、スッパマンだ。
でもってそこからは何人たりとも逃れられない。
という自覚から、逃れの旅は始まる。
と信じたい。
野ざらしのマクラは現代では笑えないのかな。
それはそれで客観という距離感すら失ったことにはなるまいか。
陰も卑屈もなく、からりと自分たちを笑ってやるのも、精神の風通しというやつではないでしょーか。
エコーナイト一作目は傑作だと思う。
あ。これはちゃんとプレイしてますから。
ちなみにあたしのうしろには誰もいませんでした。
☾☀闇生☆☽