ボウリングをやったことがないのだ。実は。
ひとりで行けるものではないだろうから、ぼっちとして、行く機会もなかった。
ただ、幼少のころ「コーラ飲ませてあげるから」というみみっちい釣り言葉にのって、家族に連れられて行ったことはある。
ようするにコーラはまだ早いだろ、と思われるほどの幼さなわけで。
それがその日だけは特別に許可されるとなれば、そりゃあボウリングなんぞわからなくとも、釣られるさ。
大人の匂いにまんまと引っ掛けられるさ。
考えてみればボウリング場に行かなくとも、コーラは飲める。
家で飲んでも、外で飲んでも、コーラはコーラなのだが。
兄とは十歳。
姉とは八歳はなれてこの世に生まれおちた身としては、なるほど、家族的リクエーションともなれば足手まといだった。
トランプなら、セブンブリッジやポーカーや豚のしっぽの熱戦をひたすら蚊帳の外から観戦したあげくに、やっとババ抜きで仲間にいれてもらうという。
てか、申しわけ程度に相手してもらうという。
将棋なら本将棋はむろんのこと飛車角落ちですら理解できないので、はさみ将棋である。
知ってるか? はさみ将棋。
それに飽きれば、今度は将棋崩しである。
もはや将棋ですらない。
はあこりゃこりゃ、といった態で頬杖ついて相手してくれる兄や姉を相手に、それはあまりに無邪気だった。
だもんでボウリングもまた、ゲームの最後に親の補助付きで触らせてもらうということになるのだな。
そんなスローイングがまっすぐ飛ぶはずもない。
ボールは手元をはなれるやあえなくガーターに転げ落ち、のろのろと遠ざかっていくばかり。
「ああ、残念」
的な、家族の声を背中にあびて、あたしゃ仁王立ちでボールを見送るのだ。
なにゆえガーターに落ちただけで敗北と決め付けるのか。
そこが腑に落ちなかった。
大人なんて大嫌いだ。
ピンのそばを通り過ぎるその瞬間、不意にボールが奮起してレーンに飛び乗ったりしないとも限らないではないか。
んなことないのか?
本当か?
絶対か?
絶対なんてあんのか?
あきらめるな、ボール。
やってやれ、ボール。
そんなやつだもの。
のちに洗濯機のうずを終了まで見つめ続けるような少年の夏休みを送ることになる。
ちゃんと洗っているのか。目をはなしたすきにサボッてんじゃねーかと律儀に監視していたのである。
要するに、その手の素質は幼くして備えていたということなのだろう。
どうしてくれよう。
このあほっぷり。
ゆえに、ボウリングが嫌いなのだ。あたくしは。
ガーターの一本道を従順に、ガタゴトとブザマに転がるボールの後ろ姿が、嫌いなのだ。
なにより、結果を見ずに、
「ああ、残念」
と背を向ける大人が嫌いなのであーる。
☾☀闇生☆☽
あの頃、コーラはちゃんと辛かったね。