以下、ネタバレでいく。
どうにもこうにも、不細工な映画である。
お話の構成やら、
事物の対比、
演技設計、音楽の統合化といったありとあらゆる点でバランスへの配慮が感じられない。
(※追記。むろん吹越は安定しているし。でんでんは好演である。映画は彼のおかげてもっているようなものだろう)
そもそもそういう概念すらないのではないかとまで疑った。
といって、
破壊の限りを尽くした混沌の美でも無いのだ。
有名な『埼玉愛犬家連続殺人事件』をもとにしたという。
事件の舞台となったペットショップを熱帯魚店にかえて挑んだとのことで。
思えば、
闇生の興味はまずそのアイディアにあった。
映画にする以上は、
リアルであるか否かよりも、まず映画になっているか否かである。
言い換えれば、いかに絵的・音楽的であるかが重要になってくる。
映画は、単なる再現VTRであってはならない。
むろん、この有名な事件への興味もあったし。
んが、
なによりも予告編にあった夜の熱帯魚店店内の妖しさに、
あのひんやりとした青い光の下に展開されるであろう欲望の粘度に、
その狂気に、
加えて、でんでんのカツゼツの悪さにも、
あたしゃ魅力を感じたというわけなのであーる。
事件の詳細についてはウィキにあたってもらうとして。
のっけから悪い予感をさせるその取っ掛かりが、何を置いてもこれだった。
おっぱい。
ちっぽけな熱帯魚店の冴えない主人のその妻の、これでもかと谷間をさらした巨乳である。
どどーんっと。
思わず噴いた。
導入はこの女のつくる料理や家事の手抜き具合からはじまって、
この夫婦がもはや仮面夫婦であることをあらわすシーンへとつながり、
彼女がこの地味でありきたりな生活に飽き飽きしていることを説明する。
ことさら女の欲求不満をベタベタに強調していくわけだ。
そこへ犯人となる村田(でんでん)が現われる。
村田もまた熱帯魚店のオーナーではあるのだが、
真紅の高級外車を乗りまわし、
わかくて美人な妻をはべらせて、
女子店員を五人も住み込みで使っているといった、いわば成功者。
言動に自信が満ちあふれ、
明るくたのしく人懐っこく、
店の規模も主人公夫婦とは大ちがい。
となると、
構造的にベタな展開が予想されるのだが、
いやそんな馬鹿な。
まさかいくらなんでもと思う間もなく、やっぱりそうなってしまうと。
ちゃんちゃん、と。
つまり、主人公の妻はこの村田にやられちゃうのだな。
あっけなく。
三流ポルノも真っ青な流れで。
いきなり頬をぶたれて、ぽっとなって、
「もっとぶってください」て。
はい、巨乳さんいっちょあがり〜の巻である。
村田のオンナもなかなかである。
宝塚ばりのキメキメの表情でのご登場は必見だ。
またしても噴きかけたし。
んが、ぐっとこらえたし。
きっと狙いがあるに違いないと。
そのうち重要なシーンでスポットをあびながら歌い出すに違いないと。
あたしゃそんなやさしい観賞者でいこうと、した。
なのに、
なのに、
彼女はキメキメの表情に終始するのね。
歌わないのね。
所詮やさしさなんてものは通じないのだ。
邪魔っけだなあ。あの自我。
この女も脱ぐには脱ぐんだ。
けど、さすがにそのおっぱいまでは自我の侵略はなかったのが救いといえば救いかな。
キメキメ。きっと演出の指示なのだろう。
伊丹十三をやりたいのか。
その割にはディティールが大雑把だし。
デフォルメも弱い。
わからん。
あれでは狂気が加速していくクライマックスにはつながらんよ。
経済的背景も気になった。
いくら繁盛しているとはいえ、熱帯魚店である。
行列ができるようなことはあるまいて。
なのに女子店員を五人も、
それも住み込みで雇うって、どういう状況だろう。
映画のなかでは接客と、
水槽のガラスを弱々しくふきふきしたり、
餌をやるくらいしか描かれない。
村田の女が彼女たちの教育係として厳しい一面を見せており、
それがある種の洗脳・被洗脳関係を匂わせてもいるのだが、
たとえそうだとしても、はてしてそうまでして雇う理由があるだろうか。
仮に村田が常習的な詐欺で大金を手にしているとしてもだ。
無駄だろう、あの人件費は。
経済観でいえば、冒頭の自棄買いもそう。
いくら欲求不満とはいえ、無い袖は振れないはず。
値段も商品名も見ずに買い物かごへ冷凍食品をぼんぼんぼんぼん投げ込んでいくあたり、掴みとしてはいいさ。
んが、
のちにそれが地味でちっぽけな熱帯魚店の妻であるとわかった途端に、こちらは興ざめせざるをえないと。
ならばむしろ、こうしたらどうだろう。
自棄になってそうしたまではいいが、レジでカネが足りなくなると。
それが現実であると。
やむなく店員に頭を下げて返品する。
その貧乏のみじめさを描いた方が、のちに派手な村田と遭遇したときに、映えはしまいか。
そもそものハナシ、
村田がどうしてこんな殺人を繰り返しているのか、という説得力がない。
あいつ。もとは単なる快楽殺人鬼ではないだろうに。
原案の愛犬家殺人のように、それをカネがらみにするのなら発端の借金くらいは描いておくべきだろうし。
そこからの悪循環とエスカレートという、
さながら坂道をころげ落ちながら加速していく狂気の経緯こそ、必要不可欠だ。
主人公はそこへ巻き込まれるのだから、正体なき嵐の正体と、その不気味をね。
んで、
それは血の量や肉片の量で表せるものではないのだな。
新しい母親に対する娘の反抗という関係にも、工夫が欲しかった。
主人公が暴走していくあたりからは、どうやら終わりどこを探り探りやっている感がある。
疲れる。
歯切れが悪い。
血と肉塊を出せば出すほど、
「だからなんだよ」
と、その奥の提示を求めてしまい。
求め続けるのにも飽きて、
とってつけたように浮いたエロシーンにはぐらかされて、やんなっちゃうんだ。
最後に、
カネと欲望と狂気とに満ちた村田の世界。
その対比のつもりなのだろう、
主人公はこうなる前の、
つつましくも穏やかだったころの象徴として、
妻との初デート場所であるプラネタリウムの記憶を大切にしている。
その狙いは構図的にわかるし、
わかってやろうとさえ思う。
んが、
映画的には効きが弱い。
甘い。
絵になっていない。
狂気の動を峻烈に描きたいのなら、
正気の静にもまた、峻厳なるやさしさをもって挑まねば。
このプラネタリウムのシーンに流れる曲も、いまひとつ。ふたつ。
狙いはわかるが。
音が悪いのはともかくとして、
全体を交響曲のように見渡していないから、
とって付けた感がただならない。
エロシーンはどれもとって付けなんですけどね。
あそうか。
コメディなのか。これは。
実話をもとにやるということは、ようは寓話なのだな。
と解釈してやりたいなあ。
ならしてやれよ。
んがんがんが、
うううむ。
いかんせん、下手くそなのであった。
☾☀闇生☆☽
観賞後にウィキでまた事件をおさらいする。
事実は小説より奇なり。
生半可な手ごたえで挑むものじゃないよ。
同僚がこの映画を観たというので、感想をやりとりしようと。
けど「なんだかね」でおしまいであーる。
がらがらがら、とシャッターおろされちゃったっす。
面白い映画の感想ってさ、
傷のなめ合いと言おうか「そうそうそう」といった単なる確認作業で終わるから、案外と話すことが少なかったりしない?
オナニーだ。
むしろつまらん映画やいまいちのやつの方が、もろもろ考えたり、疑問をやりとりして面白いんだがなあ。
そうやって、日々つまらんことを愉しむ。
つまらなさをおもしろがる。
つまらんことのなかに愉しみを見つける。
面白いことというものは、希少であるがゆえにおもしろいのであって。
大多数のつまらないに支えられてそこにある。
ならば、
どうするである。
これこそが極意なのだがなあ。
つまらんは世界の方になく、自分の状態にある。