松本人志作・監督『しんぼる』DVDにて。
気が付けば、男は密室に閉じ込められているのだった。
なにゆえそこへ連れてこられたのかはわからない。
何者にそうされたのか。
ばかりか彼自身の素性すら観客には明らかにされない。
その白い部屋には出口らしきとっかかりもなく。
手がかりらしき手がかりと言えば、壁から生えた無数のアレ。
おちんちん。
幼児天使のしんぼるだけなのであーる。
しんぼるはそれぞれスイッチとして機能していて。
それを押せば押したぶんだけ、脱出にはおよそ無関係と思われるアイテムが手に入るという仕組みだ。
男は、その予測不能に手に入るアイテムを駆使して脱出を試みるのであった。
以下、ネタバレでいく。
話の本流は以上である。
理不尽な監禁と、その被害者の脱出劇。
加えて加害者(監禁した側)の正体と、その部屋の構造や外観がわからないという設定は、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督のヒット作『CUBE』を連想せずにはおられない。
低予算を逆手にとった、アイディア光る逸品であった。
また、評判が口コミで広がって長いことレンタルで好回転していたし、類似品が随分作られていたから、きっと松本も観ているのではないだろうか。
んで、
おそらくはこう思って本作に取り掛かったのに違いないのだ。
そのシチュエーション。俺ならこうするわ、と。
『CUBE』との違いは多々ある。
その代表としては、別空間が描かれるという点だろう。
一貫して部屋の外側を観客の想像と登場人物たちの妄想にゆだねた『CUBE』に対して、『しんぼる』では少なくとも現代メキシコの日常を確かめることができる。
プロモーションでも明かされているように、メキシコのプロレスラーの話が平行して描かれている。
よってこの映画のなかには、時間的・空間的関係は不明ながらも、この二つの世界があると。
その時点で、監禁された男とレスラーにはなんらかの関連が起こるだろうことは予測される。
んが、
問題はこのメキシコパートだ。
かなり、だれるのだ。
断言するが、ああまで尺を割く必要性はまったくといっていいほど、無い。
残念なことだが、閉じ込められた男のエピソードのテンポを台無しにしていた。
要は、
自我という密室と、世界はつながっており、
それこそ森羅万象から、
超常現象から、
身の丈サイズな日常の事件までのありとあらゆるものがすべて地続きで、
とどのつまりが必然で、
それでいながら、
その相互作用は完全に理不尽であるということ。
因果応報は無いと。
そのひとつのサンプルとしてメキシコのプロレスラー「エスカルゴマン」の話があると。
そういうことなので、もっともっと短く刈り込んで良いのであーる。
監禁された男が意図せずに選択したちっぽけな行動が、
つまりが「おちんちん」のスイッチが、
絶体絶命のピンチにあった「エスカルゴマン」の首に作用して頭突きをかます。
また別のおちんちんは、どこかの国のヘビメタバンドのボーカルの吐く炎となって観客を熱狂させる。
そうとは知らずに男は、部屋の上空を目指して壁のおちんちんを無作為に選び、手を掛けて這い上がるのだ。
ロッククライミングのように。
それぞれのおちんちんが、世界のなにかしらのアクションに繋がっている。
おちんちんの向こう側で起こっている世界の映像が男のすがる壁に映し出されるが、それが男の自覚するものなのか、あるいは観客への説明なのかはわからない。
問題はそこなのだ。
はたして彼は外との関連を自覚していたのか、どうか。
序盤の『修行』の章で、
おちんちんが何らかの事象に作用していることは学習されており。
なおかつその現象が『実践』の章(部屋)からは視認できなくなっていることから、外との関連を想定してはいるだろうと思う。
そうであってこその『実践』なのだから。
男は昇天を続け、
いつしか時が過ぎ、
服の柄もすっかり落ちて、ただの白装束の長髪髭面になってしまう。
この風体。ひょっとすればイエスをあらわしているのかとうっかり解釈しかけたが、やめた。
おちんちんのスイッチと世界との関連が明確に自覚され、この世に作為的に関わることができるのならば、そのラインもあるいはアリかもしれない。
けど関連は彼に確かめようもなく、おまけにその関係性は完全なる理不尽なのだ。
ようするにゴッドではない。
少なくともイエスをイメージさせたいのならば半裸にはするだろう。
それがここでは白装束である。
わざわざあの派手派手な柄を選んでおいて、それを消してまで強調しているのだ。白を。
それを無我への過程と解釈してもいいのかもしれないが。
例の地下鉄テロのカルト教団をイメージしたのではないのか。
自我と世界の確かな繋がりを自覚して、
なおかつそこへ作為的には関われないと。
理不尽にしか関係をもてないことをふまえて、己を生きる。
終わりなき孤独を、受け入れる。
それは狂信的なまでの主観の強さでもあり、
ある種の自己崇拝でもあり、
世界との訣別というスタンスでのかかわり方でもあって、他者を他者として了解するということだと。
ひいてはカルトであるとも言えるのかもしれない。
(なんせ松本は映画とは『我』であるとのたまっている)
最終章『未来』での主人公のあのアクションは、
そう踏まえたうえでの選択のアクションなのだ。
押すべき『しんぼる』は、ただひとつとして。
いったいあたしは何を言っているのでしょうか。
清水靖晃によるエンドロール曲が、ずっぱまりでございました。
あの曲に男の孤独が、
もとい映画が、
どれほど救われたことだろう。
付記。
なにゆえ男のしんぼるなのだろう。
天使って女はいなかったんだっけ?
『実践』の間の天使たちは大人天使なのだが、ならば壁のしんぼるも大人のソレにすべきだったか?
いや、それはまずいだろう。
つついて、掴んで、連打して昇天って。
あと、
演技として。
松本のヅラ。
せっかく見慣れたのに、あの髪をなでる仕草がいただけない。
あれは実際にあの髪型の人ならやらない仕草で。
はじめてウィグを付けた人の動きである。
全体的に役者になりきれておらず、どこか演出家としての気持ちを残したままカメラの前にいる気がした。
昇天の先に何が待っているのか。
押井の『アヴァロン』オチを期待してしまったよ。
☾☀闇生☆☽
余話として。
いやあ、笑った笑った。
結局二度観たのだが、
二度目はメキシコパートを程よくスキップしてみた。
観賞法として失礼だとは思う。
けど、このうえなく快適で、
上記の断言に至った次第。
更に追記。
あそうか。
この自我の密室状況を絶望と言うのか。