壁の言の葉

unlucky hero your key


 こまったのは、ちょうど米びつが空っぽになっていたということである。
 といって血眼になって販売店をハシゴするのも、なんだし。
 なんだしとは、大人気ないという。ようは恥じらいが作用してしまうのだ。おっさんのくせに。
 たとえそれで米にありつけたとしても、普段から自炊している身としてはね、思うのですよ。
 別にこれは普段通りのあたしの食習慣であって、このたびの災害とは関係ないのだぞ。という渾身のオーラをみなぎらせつつ店員の視線をやり過ごさねばならんのかいと。
 ええい。めんどくせえ。
 みなぎらないし、そんなもの。
 部屋には蕎麦の麺が五束。
 サトウの切りもちが八個ばかり。
 それとサバの缶詰がふたつ。
 煮干し。
 つまみのピーナツが二袋。
 冷蔵庫には卵が二個。
 牛乳があと一杯ぶん。
 白菜が四分の一。
 マヨネーズ、まるまる一本。
 ま、これだけあればムニエルでもジンギスカンでもなんでもできるよね。
 人間、やろうと思えばできるのだ。


 それはそうとして、
 仕事が相次いで中止になっているので床屋に行ってきた。
 この壁の言の葉でなんども『無愛想な古田新太』として登場していただいたその大将が、めずらしく饒舌で。
 いつもはむっつりと「いらっしゃいませ」すら言わないのに、いやあ喋るわ、喋るわ。
 地震直後から現在までの彼物語と、物資情報と、おすすめ災害アイテムと、小粋な震災ジョークまで。
 これもまた不幸中の幸いとでも言えるのか。
 かつてからにらんでいたとおり、面白いお方であーる。
 みなさんもどうすか、これをきっかけに話しかけてみては。好きなあのコや、会話の無い女房、人相の悪いご近所さん、口の臭い上司から影の薄い同僚まで。
 それを人脈と呼んでは大袈裟なのだが、普段からのさりげないお付き合いが、いざというときに心強い味方になったりするのだ。
 味方は多い方がよい。

 
 さて、
 今日はやっと仕事が入ったので現場に行ってくる。
 むろん自転車で。
 一時間半くらいかかるかな。
 いつもなら握り飯とゆで卵をつくって、それにコンビニで買った野菜ジュースをつけて簡単な昼飯にしてしまうのだが、それができない。
 先にも言ったように米が無い。
 なので早朝からコンビニへ出かけた。
 握り飯が入荷したてである。
 カップ麺も二つばかりあった。
 けどそこはやっぱ、あれでしょ。
 必要なものだけにするのが男のダンディズムというものでしょ。
 ダンディズムって言葉を使ってみたかっただけですが。
 鮭とたらこのをひとつずつ。ことさら慣れた素振りでチョイス。
 おかずがないので、コロッケを買いました。このダンディったら。
 なんでも我が古田新太によれば、地域ごとにコンビニの搬入トラックの到着を逐一ネットに書き込む者がいるとか。
 それを目安にわらわらと集まってくるのだそうな。
 なるほど、
 昨日の午後に立ち寄ったセブンイレブンが丁度そんなタイミングで、店長がパニックをおそれて商品をいったんバックヤードに匿っていたっけ。
 パートのおばさんが引いていたが。
 売り場で荷ほどきだか値つけだかを始めれば、あれよあれよとお客の手が伸びてくるのだろう。
 やだねえ。
 現場の職人さんたちも大変だろうなあ。
 朝も昼も現場近くのコンビニ頼みの人が多いからなあ。
 

 と、


 深刻化する買い占め。
 闇生は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を連想してしまうのだ。
 そうそう。こんな話を聞いたことがある。
 地獄について。
 そこには巨大な鍋があって、
 なかには御馳走がぐつぐつと煮えている。
 それを人びとがぐるりと取り囲んでいるのだそうだ。
 手にはおそろしく長い箸を持たされている。
 その箸で御馳走を掴めるのはいい。
 んが、
 あまりに長いのでそれを自分の口に運べない。
 よって人びとの空腹は満たされず、
 苛立ち、
 隣が邪魔だと互いにいがみ合っている。
 では天国はというと。
 実は環境も条件もまったく同じなのだという。
 皆おっそろしく長い箸を手にしてご馳走の鍋を取り囲んでいる。
 違うのは、
 人びとすべてが掴んだ食べ物を鍋の向こう側にあげている点。
「はい、あーんして」
 どうぞどうぞ。
 どうもどうも。
 よって誰もが満ち足りているのだという。


「……もしもし、もしもし……天国があるというのなら、何故あの世に作るの? この世にないの。どうして、天国が今ではなくて、アフターなの? その答えを教えてくれたら信じてもいいよ。あなたのこと……ごめんなさい。嘘ついた。ほんとは助けが欲しい……あなたの。聞えていたら……返事して……神さま。」
 野田秀樹作『オイル』(21世紀を憂える戯曲集 新潮社)より





 客体化されたこの世が、あの世だ。



 ☾☀闇生☆☽