ジム・ジャームッシュ監督作。
仮にラーメン屋のオヤジを創造主とするならばだ。
その腕によりをかけた一杯のラーメンは、つまるところなんだ。
さながらひとつの惑星と言えはしないだろうか。
ラーメン星には王チャーシューが君臨し、
面の皮もふてぶてしくのさばっているのは言うまでも無く。
彼は数多の真珠のごとくにかがやく脂の湯船に、その玉体を悠々と浸らせ、
細切りに盛った葱の御簾のなか、
ナルトを枕に、
たったひとり、卵の添い寝をゆるしている。
側には小女のシナチクたちが侍り。
青くなって畏まるほうれん草の側近たちにかしずかれて。
そして、その常世なる寝所を、
陰に日向にコシの強さで担ぎ上げているのが麺という名のわれわれ大衆でござると。
といって、
我らがラーメンオヤジ神は、
チャーシューが作りたくてラーメン屋になったのではない。
と思う。
言い換えれば、チャーシューだけが食いたくてラーメン屋の暖簾をくぐる客もいない。
だろう。
んが、
それを自覚しているかどうかは別のハナシだ。
だもんで、
つい、丼から溢れんばかりに盛り上げられたチャーシュー・タワーに騒ぎ、驚いて、行列を作ってしまったりするんだなあこれが。
ラーメンとは何か。
ラーメンを、ラーメンたらしめているものは、何なの?
結局のところ、それら王も大衆も具も含めた総合的な何か、に他ならないわけで。
曖昧だが、そんな按配やら絶妙なサジ加減を調和と言ってしまうならば、ハーモニーを象徴するのが何をおいてもスープであるのには違いない。
なのでやたらあたしらはスープを云々したがるのね。
けどそれもまた一側面であり。
その曖昧模糊としてはいるが確かにそこに在る魅力。それをオヤジ神も、して客も、模索するのだろう。
ラーメンとはなんぞや。
これは映画にとっても同じ事が言えるわけであり。
つまりが監督神は、
映画と云う確固たる曖昧を掴もうとして、格闘するのだ。
んが、
観客の多くは無自覚であるからして、ついチャーシュー・タワーに、湯切りのパフォーマンスに、こってこての味付けやらサッパリ風味に、つられてしまうというわけ。
よって監督神は、
不承不承タワーをつみあげつつ、その本質を隠し味として仕込む、らしい。
こわいから断言はしないぜ。
黒澤明が晩年に「私はまだ映画というものがわからない」と発言したスピーチはあまりに有名だからあえて詳しくは触れない。がその黒澤は、どうやらカットとカットの隙間にこそ映画があるのではないかと、映画的なるものの隠れ家について言及していた。
その彼が、
ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を褒めていたことは重要であり。とりわけシーンとシーンのつなぎ目に強調される黒味の間(ま)について褒めていたのは、ほかでもない、そこにこそ映画が潜んでいると見極めてのことであった。
ようするに、
あのふてぶてしいまでに確信的な間。
その自信はなんなんだと。
それは俳優のセリフのやり取りにも生かされているのだが。さてはジャームッシュという若造は映画的なるものを掴んでいる。と黒澤は見て取ったのだと、あたしゃ解釈している。
となると、
その映画的なるものとは、爆破やどんでん返しや謎解きといったチャーシュー・タワーにはない。
むろんそれらも映画の華ではある。
ありはするが、それが無くても映画は映画だぞというこった。
なんせ『ストレンジャー〜』だ。
あえてかましたモノクロだし。
ましてや3Dでもなく、
裸も子供も動物はおろか、アクションすらないんだもの。
タワーに頼らないのだから商業的要素は薄いわけ。
なんせそれは間、だもんで。
ならば、間とはなんぞやと。
端的に云えば、息継ぎでなのであーる。
つむぎ出されるセリフはすべて呼気によるのだが、それらは吸気に支えられてこそであると。
そこにまざまざと間が生まれると。
たとえば歌もまたブレスを含めてが歌であるように、セリフも息継ぎという間をふくめてがセリフなのであり。
してまたこれはセリフだけでなく演技にも、
フィルムにもいえることなのであーる。
その意味でのリズム。
これを自覚している表現者とそうでない表現者とでは、まるで表現の幅が違ってくるはずだ。
間。
その間の止まり木として、
セリフとセリフの合間に、
あるいは途中に、
言葉と意識の息継ぎとして、
ひと口のコーヒーとタバコがあるわけだ。
男がいて、
そこに女が現われれば、映画が出来ると誰かが言ったはずだ。
誰が言ったかは忘れた。
忘れつつその蛇足を引き受けるならば、
その二人は会話なり、
あるいは視線のやり取りなりをするはずであり。
ならばそこには必ず間があるわけで。
コーヒーが、
そしてタバコがそれを援けると。
言い換えれは映画がその息継ぎに、文字通り息を吹き込まれる。
たとえば、
会話やメールをふくめた情報のやりとりとは、実はその間もふくめてが情報であったりする。
いや、
間をふくめてこそ、なのだ。
かつてラーメンには、主役ではないが、紛れもないシンボルとしてナルト巻きという端役があった。
ある時期まで、漫画に出てくるラーメンにこれが浮いていない絵はなかったのではないだろうか。
けれど、いまや巷のラーメン星からは消え行こうとしている。
味はむろんのこと、視覚的調和の名バイプレイヤーであるのに、である。
これをある種の間と見立てるのは、無理があるだろうか。
気が付けば、とかく間の省かれる御時勢。
おなじように、タバコもまた映画星のなかから消えようとしていて。
あたしゃ24歳と10ヶ月で禁煙したおっさんだが、
こうして映画の棲家としての役割を垣間見せられると、それがちょいと寂しいのだ。
くりかえすが、
チャーシュー・タワー的なものはこの映画にはない。
湯切りのパフォーマンスも、
漬け麺だの、
斬新なスープのアイディアもない。
しいて言えば、本質以外をとことん排除したら、という贅の尽くし方。
映画好きにはたまらん確かなひと時が、そこに在るだけだ。
☾☀闇生☆☽
明け方にヘッドホンでこそこそ見てたが、
何度も大笑いしてしまった。
役者が実名で出演しているので、その辺がわかるとより面白いはず。