言わずもがなではあると知って、野暮天をかます。
映画化と、映像化。
これは似て非なるものである。
たとえば原作として小説をたたき台にする場合、そこに時間の制約や空間や、つまりは動きや、色彩や音声、音楽その他もろもろを、もろもろに構築せねばならないわけで。
なんせ、活字から読者が想像した原作世界というものは、読者の数だけあるわけだからして。
それはもう一口に映像化とはいえども、まがりなりに原作通りの印象を与えようとするならば、膨大な換骨奪胎、改変、ごまかし、なんちゃって、省略、つけ足し、とどのつまりが創作に依って立つしかないわけ。
そうと知りつつ、このプログではあえて原作と対比した感想などものたまってきてはいるのだが。
んでその過程の先にやっと、
はたしてそれが映画になったのか、
単なる映像化に過ぎないのか、という問題があると。
ようするに、映画というものは原作者のものではないのね。
そうあってはならないの。
どんな企画ものであっても、監督のものなのだ。
いいかえれば、どんなにつくろってもどこかしらには監督の価値観なりセンスなりが匂ってしまう。
だからね、
いいたいのはね、
例の『ノルウェーの〜』。
原作を求めなさんなということ。
それは小説があるのだから、いいじゃないすか。何度でも読み返せば。
わざわざ映像での説明を期待しなくたってさ。
名作『青いパパイヤの香り』を撮った監督トラン・アン・ユンの最新作として、期待しましょうよ。
あの、普段は小説なんぞ読みもしない有象無象、猫も杓子もが、当時の世間のノリにつられて買ってしまったベスト・セラーを、トラン・アン・ユンはどう撮ったのか。
どう料理したのか。
ああ、こう解釈したのか、と。
でないと、
まるでかつての恋人の面影を他の誰かに追い求めるようで、せつないっしょ。
……ということもふくめてが『ノルウェーの〜』にまつわる現象なのだったりするのだな。
呵々。
☾☀闇生☆☽