壁の言の葉

unlucky hero your key

『グラントリノ』感想。

グラントリノ
クリント・イーストウッド監督作『グラントリノ』DVDにて。



 生涯唯一の理解者であった妻を亡くした老境の退役軍人、ウォルト。
 頑迷固陋で、
 排他的で、
 異民族や世代の違いにちっとも理解が無く、
 といって彼の国の保守派らしく信心深いかというと、決してそうでもない。
 隣人はむろんのこと、離れて住む息子たちはおろか警察すら頼りにしない。
 よって嫌われ者であり、
 あられもなく孤独だ。
 いや、孤立といっていい。
 そのウォルトがこよなく愛するのが、古き良き時代のアメリカを象徴する車、グラントリノである。
 おそらくはその気高い雄姿に、彼は男の理想をみていたのに違いなく。
 物語は、そんな愛車の盗難未遂事件から始まる。
 犯人は、隣に住むアジア人一家の少年タオ。
 親戚のチンピラにそそのかされての犯行であった。
 タオはその侘びとしてひとり暮らしのウォルトの雑務を買って出ようとする。
 文化の違う彼らとは関わりすら持ちたがらなかったウォルトだったが、やがてタオに根負けして、
 そして……。


 以下、ネタバレ込みで。




 孤独とはその実、楽ちんなのだ。
 人はその一面に惹かれて、知らず知らずにそういう状況を選んでいるものであーる。
 なんせ己が大切だもんで。
 自分、大っ好きだもんで。
 して、
 昔と違ってひとりでもついつい生存できてしまう状況が、それを助長するこの現代社会なるものというわけであり。
 対してつながりとは、
 苦痛も、憎しみも、哀しみも共有し、
 同時に責任やら義務の相互関係を、大なり小なりに築くことでもあると。
 惜しもうが惜しむまいが、それにまつわる労力をつかうことなのだぞと。
 つながることは、つらいのである。
 痛いのである。
 めんどっちいのである。
 ゆえに損得がからんで、
 ゆえに苦か楽かがその査定基準となり、
 ゆえに、最終的には精神的なり物質的なりに『楽』に落ち着かんことには、にっちもさっちもいかない。
 あたしゃふかーく傷ついてます。
 どーしてくれんのよ、
 とな。
 つまりがそんな自他の傷つきを忌み嫌いつづけると、孤独は、いつしか孤立におちいってしまうのだな。
 無論、
 ひとりもんで低収入の、
 ひいては無職のおっさんが世間的に煙たがられるのも、根底にそんな力学が作用しているはず。



 んにゃ、
 そのはず。
 (耳いてえ。)
 言ってみりゃ『杜子春』だ。



 ひとり、という古城の主でいたウォルト。
 その彼には世間への苛立ちと、自身の城の安寧こそあれ、日々の充足感はない。
 その不安の要素を、過酷なる戦場(朝鮮戦争)での彼の記憶に求める人も多いだろう。
 んが、どうだろか。
 必ずしもそれのみが主たる原因ではないのでは。
 結局のところ、彼はあの決行の直前にそれを『懺悔』していないではないか。
 確かに、
 戦場での殺戮行為は上官の命令ではなく自発的にした、とウォルトは告白する。
 しかし彼の国は民主主義の最大手である。
 総元締めだ。
 とどのつまり戦争もまた国民の総意による、とされる。
 いくら自発的といえども、常識的に考えれば、まあそういうことで。
 換言すればワンプレイ、ワンプレイ、監督の指示を待っていたのでは、本田はゴールを決められないと。そういうこと。
 よってウォルトの決断を、戦場での疚しき行為への懺悔と解釈するのは、安直かもしれない。
 たとえ殺した敵兵が、降伏間際であったにせよ、だ。
 となれば、
 彼の『特攻』は、復讐の連鎖を断つ行為、という答えが最有力だろう。
 ギャングたちの出所を待ってタオ少年が襲う、ということもありえるし。
 ギャングたちが刑期を終えてからタオ少年を、ということもありえるだろうが、やはり余命いくばくもない彼のみにできる存在の仕方を、そこに見出したのだと、闇生は解釈している。


 なんせあれだもの。
 彼には、他者との関係性が希薄なのだわ。
 言わずもがな個性とは、
 して個人とは、公(おおやけ)との関係性のなかに立ちあらわれる現象だ。
 息子たちとその家族との、
 あるいは隣人との、
 地域社会との、
 会社組織との、
 そして友人との、関係性。
 それぞれの現場における自分の役割が、さながらX、Y、Z軸上に決定された数値となって、自分の輪郭を多面的に指し示す。
 座標軸が増えるほどに、その交点に個性がまざまざと明確化する。
 ウォルトにとっては、隣人との交流で異文化に。そしてタオ少年らとのつながりでは世代の違いに。それぞれ古い白人男としての自分の役割を獲得していった。
 タオ少年にしてもそうだ。
 父親も友だちもなく、学校にさえ行かない彼もまた、ウォルトとの関係性に文字通りの自覚を得たはず。
 だもん、関わるほどに活き活きとする。
 んが、
 そのぶん他者の哀しみも苦しみも、いずれは背負い込むはめになる。
 クライマックスに向かうウォルトの怒りは、ひとり城に立て籠もっていたままでは、決して生まれなかった感情である。
 そして、
 彼のあの決断もまた、そうだろう。
 余命いくばくもない老境の彼が、他者との関係性の中に見出した役割が、ずばりあれなのだ。




 己の役割に死ねることほど、幸福なことは無い。







 イーストウッド自身がその立役者のひとりでもあったウエスタン映画。
 彼はそこに脈々と描かれてきた英雄像を『許されざる者』で、否定してみせた。
 結末を、この映画と見比べるとおもしろいでしょう。


 ☾☀闇生☆☽


 余談。
 庭の芝生。
 アメリカの庭付き一戸建ての佇まいは、映画の中によく紹介される。
 なので、それは我々日本人にも見慣れた光景である。
 そして、その芝の手入れもまた、彼らにとっての関心ごとであるということも。
 映画の中では、隣のアジア人の庭が荒れていることにウォルトが憤るシーンがある。
 つまり刈り込んでいないと。
 それで気づいた。
 言われてみれば、英国式庭園のような花に溢れる風情は、あまりアメリカ映画に出てこない。
 日本の一戸建てで芝を植えているところも、それを最終的には垣根で囲ったりして、目隠しをする。
 しかし、アメリカの住宅はそれがない。
 つるん、と丸出しだ。
 刈りそろえられた芝のみ。
 この文化の違いはおもしろいと思った。
 セキュリティの観点から、死角を嫌ってのことだろうか。
 自然との距離感の違いでもあるな、きっと。


 余談2。
 スパイク・リーが撮ったら、また違ったものになったのか。


 余談3。
 エンディング曲はジェイミー・カラム
 ジャズ好きのイーストウッドらしくて、思わずにやりと。


 余談4。
 朝鮮戦争
 イーストウッド自身もその戦地へ派兵されかねない境遇だったのね。
 「アクターズスタジオ」出演時の発言によると、宣戦布告のない進軍だったとも。