そう、
接客といえば――、
あたしがよく利用するコンビニの店長が、最近になってがらりと客あたりを変えたのだわ。
この人も本来は寡黙なタチのはずで、
そのお、
なんだ、
つねにナーヴァスでございってな、閉じ気味である。
目つきもするどい。
むろん、あたしなんぞに他人のことを言えた義理はない。
けど、だからこそわかるのだ。
この手の人は没頭するほど、そうなると。
責任感ゆえの緊張でもって常にピリピリしてしまい、と同時に自然と声のピッチ下がって、硬質になる。
神経質になる。
過剰で執拗な自意識が、それをテッカテカにコーティングしてかかる。
ところが、これが最近になって変わったのだな。彼は。
ひょっとしたら本部の指導が入ったのだろうか。
まずは形から。
そう、声が高く、若干柔らかくなった。
パスタのゆでる前と、その最中の違いほどにだ。
不思議なもので、声がそうなると物腰も気持ち丁寧になりかけるもので。
ちなみに、戯れにおねえ言葉を使ってみればいい。物腰はどうしたってそうなるし、野郎言葉でのたまってみれば、やはりぞんざいに傾くもの。
言霊とはよくいったもので…。
むろん声だけでどうにかやりくりできると思いがちであるから、要注意。
その自信は同時に思い上がりでもあり。
そうなると知らぬ間に『怒った顔で笑う』なんていう、至難のわざを極めちまったり、するものだ。
こわい。
正直、不気味でもある。
さながら『笑顔で怒る』竹中直人級の名人芸の、その間逆ではないか。
ともかく、表情から人当たりが変わるのもまた、真実である。
そうは言っても鉄面皮よろしく強張ってしまった場合には、あの、むずかる赤ちゃんにポニョがしたように、むにゅぅうと顔を揉んでやるといい。
揉むがいい。
揉むのがいい。
んが、
んが、
といっても、人は一朝一夕には変わり切れやしない。
ゆであがるまでには、時間が要るのだ。
だから、努めてそうしている感がたぎっているような。いや、揮発し切れない自意識によって故意にたぎらせているような印象すら彼にはあったのだが、そのカドも、芯も、日がたつにつれて徐々にとれて、丸くしなやかになりつつある今日この頃。
あるときそれに気づいたとき、あたしゃ思わずアタマがさがる思いがしたよ。
下げなかったけどね。
それは何気ない変化ではあるが、当人にとっては大変な変革であろうことは想像に難くないのだし。
して、破り棄てたはずの己の殻の、そのぬくもりへの誘惑にも、今後再三襲われるはずでもあるからして、終わりがないのだ。
いやはや、いばらの道かと。
だからといって、
「んじゃ、向いてねえんじゃねーの、お前」
だなんて、切り捨てないでほしい。
どーか頼む。
その「向き、不向き」信仰ってのが個人を過剰にのさばらせて、自分探しという不毛を生んだのだから。
戦前の人に話を聞けば、そもそもそんな概念などなかったりすることに気づく。
どうやら、自由にもまた、功罪があるらしいよ。
☾☀闇生☆☽
恐れ入谷の鬼子母神。