鴻上尚史の『孤独と不安のレッスン』を読み直した。
終えて今、ただちにまた読み返している。
最初に読んだときには、孤独と不安について自分なりに漠然と考えていたことを、鴻上に整理してもらう印象であった。
横柄に言ってしまえば「知ってるよぉ、んなことぐらい」と。
横っ腹で笑っちまうぜえっ。
なんせあたしゃ、ひとりになりたいがために地元の高校を避けて、わざわざ一時間も離れた同じ偏差値の違うところを選んだような男である。
成績は中の下であった。
ようするに平凡。
だから、大多数の級友が地元の高校を選んだ。なのに、あえてそうしたと。
モノ好きにもほどがあるというもので。
そんな高校生活で、できた友だちはたったひとり。
ほんとは作らないつもりでさえいたくらいである。
上京だって、そんなへそまがりがゆえだもの。
でもっておっさんになるまで、ずっと独りであると。
だもんだから独りの大切さも、おもしろさも、しんどさも、そこそこ味わってきたし。
となれば、それなりに対処方というものが嫌でも身に着いてくるもので。
正直、自信がある、
つもりでいる。
けれど、それでも時に襲われるのですな。
耐えようのない孤独と、底なしの不安に。
いや、年々ひどくなる一方だ。
この本で鴻上は、孤独をふたつに仕分けている。
ひとつは、自分と向き合うための充実した孤独。
もうひとつは、ネットやテレビや人間関係など、日々の煩雑な情報に紛らわされてしまうニセモノの孤独。
不安もまた同様で。
その問題に対してとるべき行動を「考えさせる」前向きな不安。
対して、悩んでいても仕方のないことを「ただ悩んでいるだけにさせる」後ろ向きな不安。
考えることと、悩むこととは違うのだ。
どんなに賑やかに、そして経済的に安定した生活ができたとしても、人間は絶対に孤独と不安からは逃れられない。
紛らわせても、紛らわせても、いつかきっと追いつかれる。
いや、紛らわせたぶんだけ耐性がもろく、陥ったときは性質が悪いのではないだろうか。
どうせ捕まってしまうのならば、それと付き合って前向きに利用しない手はないだろう。
つまり本書はその指南の書なのであーる。
あたしゃこの手の、いわゆる啓発本というものは、ツッコミを入れて元気になろうという魂胆で手を伸ばす。
なんといやらしい。
まず、読んでいるうちに、かならず疑問がむくむくともたげてくる。
で「それって矛盾では」などと突っ込んでいるうちに、途中で投げ出してしまう。
なんせ孤独だの不安だのといった抽象的な怪物が相手である。
突っ込もうと思えば、スキはいくらでもあるのだ。
なので言葉がいつしかよそよそしくなって、やがて遠退いて行く。
そのときにはとっくに回復しているものである。
それでいいと思う。
いままではそうだったし、この本の初見でも、その気持ちで読んでいた。
たとえば本書には、孤独は自分と向き合うためにある、とある。
ところが他方では、孤独は恥かしいものだと思い込む自意識を、解放せよと。
矛盾とまではいえないのかもしれないが、このバランスはちょっちむずい。
自分とがっつりと向き合いはするが、自意識は解放させるという。
まあ、そのためにホンモノの孤独を手に入れろというのだろうが。
そして繰り返し試行錯誤して、すこしずつ勘所をつかんでいくべきなのだろう。
もしこれを読んで「ちゃんちゃら笑っちまうぜ」と思うのならば、現在のあなたは充実しているのかもしれない。
うらやましい。
ただしそれは、充実した本物の孤独を知るがゆえに言えるのか。
あるいはただ紛らわせているだけのニセモノの孤独だからなのか。
はたまた、自分のかかえる不安が後ろ向きか、前向きかを確認することは、決して無駄なことではないと思うのだ。
いいきっかけになる本だ、思う。
先に述べた「突っ込んで元気になる」に使うにしてもね。
飯は腹が減ったときに食うのが理想だ。
もしこのタイトルにあなたの胸が感応したならば、まさに食べどきだ。
そのタイミングでならば、読む価値があるはず。
☾☀闇生☆☽
月、かっけー。