壁の言の葉

unlucky hero your key

「私」は、どこ?

名短編、ここにあり/ちくま文庫














 北村薫宮部みゆき
『名短編、ここにあり』ちくま文庫 


 半村良「となりの宇宙人」
 黒井千次「冷たい仕事」
 小松左京「むかしばなし」
 城山三郎「隠し芸の男」
 吉村昭「少女架刑」
 吉行淳之介「あしたの夕刊」
 山口瞳「穴――考える人たち」
 多岐川恭「網」
 戸坂康二「少年探偵」
 松本清張「誤訳」
 井上靖「考える人」
 円地文子「鬼」……以上、収録。




 どれも読み応えがあって、愉しめた。
 なかでも強く印象に残ったのが、これ。
 吉村昭の「少女架刑」。
 主人公は、死体である。
 物語のはじめから、すでに死んでいるのだ。
 貧困のために献体にだされる少女の、その霊の一人称でつづられていた。
 むろん作中では「霊」とはっきり断ってはいないが、まあ、そんな存在だろう。
 といって、
 現世へのどろどろとした愛憎や未練もなく。
 ブラックな笑いをまとうのでもなく。
 ひんやりと静謐で。
 淡々と少女の死体をとりまく環境が観察され、実況されていく。
 その冷たさが、いい。
 以下、
 その感想などをつらつらと。
 

 例によって、いわゆるネタバレになるでしょう。
 ご注意を。








 『甲殻機動隊』という漫画があって。
 と、唐突に違う作品の話からはじめるが、許されよ。
 これはアニメ化されて海外でも話題になった傑作であるからして、ご存知の方も多いと思う。
 ひと口にいえば、この物語はいわゆる電脳社会を舞台に描かれている。
 たとえば我々は、腕を失えば義手に。
 それが足なら、義足に。
 義眼、
 義歯、といった具合に、失った機能を外から補っていく。
 その可能性は科学の発達とともに増えるはずで、人工の皮膚、内臓、筋肉…と。
 ゆくゆくは、心肺機能までが、そっくり付け替えられるようになるだろう。
 そこまでいけば肉体をまるごと人工物に取り替えられるわけで。
 それをこの世界では『義体』と、呼んでいた。
 となればだ、
 あとに残るのは『脳』のみ。
 さーてさて、
 これもまた人工知能に交換できたとすると。
 それまでの記憶をデータ化して取り出し、その人工脳(電脳)に移して、といった具合に。


 と、


 ここまでくると「おや?」と思う。
 はて、この「おや?」と思っている自分の『心』というか『魂』といおうか、意識。
 とどのつまり自分というものは、いったいどこにあったのか。
 段階的に外されていった肉体の各部分にでは、ないわけで…。


「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」


 なにやら落語の『粗忽長屋』めいてしまいましたが…。
 ともかく、
 そんなこんなで、肉体はすべて入れ替わった。
 記憶も数値化されたから、ネット空間を自在に行き来する。
 そこまでいっても個別性が保たれるのかどうか、あたしには分からない。
 もし、そこまでいけたなら、
 小説『2001年宇宙の旅』に、いづれ追いつくことだろう。
 あの、宇宙の果てで人類を待っていた何ものかのように、記憶や魂を、自然物や大気のなかにアップすることができるようになるかもしれない。
 けれどそうなれば、
 普通に死滅して塵芥に還るのと、結局のところは変わりがないわけで。
 なんのことはない。
 遠まわりなだけなのであーる。


 この考えは、振り返れば脳のデータ化あたりに、ボタンの掛け違えがありそうだ。
 それはそれとして、
 吉村昭の『少女架刑』。
 読みながら、あたしゃこの『甲殻〜』の映画版『GHOST IN THE SHELL』を観たときの驚きを、思い出していたのであった。
 ここに出てくる少女の死体は、大学病院に売られ、献体に使われる。
 解剖され、授業や研究に利用されるのだ。
 少女の一人称「私」は、それら一部始終を目撃し、独白していく。
 肉体は少しずつ解体され、
 パーツごとに分けてホルマリンに漬けられ、
 最後にはほとんど骨だけとなって、荼毘にふされる。
 それでも「私」は、「私」という個別性を保って、燃える自分の肉体を観察し、感想を抱き、つぶやき続けるのだ。
 さて、問題はここだ。


 この「私」は、どこにいるのか。


 単に『霊』かというと、そうでもなさそうで。
 もろもろあって「私」の遺灰は、身元不明などが理由で引き取り手のない遺骨の安置所に納められる。
 その納骨堂には、すでにおびただしい数の骨壷がぎっしりと詰まっていた。
 しかし、そこでも「私」はひとりだ。
 もし、少女が霊ならば、他の骨壷についてきた霊たちも、そこにひしめいているはず。
 なのに、ひとり。
 おそらくは、無限にひとりだろう。


 想像を膨らませれば、
 しばらくして、あの世への案内人のような存在が迎えに来るのか。
 はたまた、霊と霊は、互いにその存在を確かめ合えないのか。
 などと、つらつら。
 読後の余韻が、
 いまも鐘の残響のように尾を引いている。










 哀しみが凛として美しい一編だった。



 ☾☀闇生☆☽


 ついでに、
 「私」と「骨」とのつながりがわからない。
 骨壺についていく「私」は、それにつながっているのか。
 母胎と胎児をつなぐへその緒のように。
 だとしたら、それは切ることができるのか。
 あるいは、意識的にそこを離れないでいるのか。
 もし、骨そのものに宿っているとするならば、どの骨か。
 灰になって散ってしまったなら、個別性は霧消してしまうしなあ。