うれしはずかし。
今頃になっての初詣である。
なにゆえ、こんなにまで遅くなってしまったのか。
まず、三が日に休みがとれなかったということ。
それと、近所の神社が、由緒ただしくもこじまんりとしたところで。いい意味で地元密着型であると。
いや、それはいまどき誇らしいくらい。
で、いつもは森閑としたその境内にも、正月ばかりは参詣の列ができる。
そして去年までのお飾りやら、お札やらを焚き火にくべますでしょ。
なんと呼ぶのですか、あれ。
とにかくその火を囲んで輪が出来ておりまして。
でもって地元ですから、和気藹々となんか盛り上がっておられるのですな。
そこへきて、この、他所から来た賃貸住まいのひとりもんである。
鳥居をくぐってずずずいと入っていくと、一同が一斉にこちらを見るわけ。
だれだんべ、と。
それは、知った顔を探す当然の視線なのではあるが。さながら、
なんだ、しらねえ人だ。
そんなさぶいマを生んでしまって、すんませんと。
しらねえ人ですんませんと。
とまあ、まことにもって小心者な闇生なのでござるよ。
だもんで、
そんなこんなの新年のノリもいい加減冷めているであろう下旬を狙い済まして、ひとり、詣でてきたという次第なのであーる。
行きは急峻な男坂だ。
その七十四段の石段は、歴史の重みに歪まされて。
平日の境内はといえば、思ったとおり人影が無かった。
胸のすくような森の静寂。
どこか遠くで鳥の声。
お賽銭をころんと投げて、二礼二拍手一礼をば。
をば、をば。
ここの神社の場合、拝礼で唱える文言を正面に掲げてあるから、行き届いている。
たとえば、ジャンボ宝くじが当たりますように、だなんて。願い事がうっかり私ごとにかたよらないで済むように。
そんな、ありがたーい配慮なのだろう。
意地悪く解釈すれば、それは威圧だ。
けれどハッピーな言葉なのだから唱えてマズイはずもなく。不肖闇生は、尻尾ふって唱えたさ。
短いそれを三度繰り返して読めばよいだけだから、ちょろいもんよ。
どんなもんだい。
ふりがなが振ってあるから、政治家にもおすすめ。
帰りはゆるやかな女坂を折り返しつつくだる。
坂の下には小さな洞窟があって、その奥にはたしか祠があったと思う。
染み出る水は、無病息災を叶えるありがたいものだといふ。
いや、なにより味がいいのだな。
ペットボトルをいくつも自転車に積んで、それを汲みに来る人の絶えることがないのだから。
その帰路。
この際だから、あたしの苦手とする人垣というものを考えちゃったね。
それは、ミュージシャンとファンの関係としてね。
よく思うのだ。
古参のファンというものは、ときとしてそのアーティストを潰してしまうことがあるのではないかと。
当人たちは決して悪気が無いのだが、新参者からすればその古い常連の壁が、アーティストそのものへの敷居の高さになっている場合があるのよ。
彼らの想いの熱さが、壁の厚さとなって立ちはだかるわけ。
ジャンルで言えば、もっと分かりやすいかもしれない。
たとえばジャズや、クラシック。
わかるでしょ。
ファンの熱い想いと知識が、新たなファンを遠ざけている現状が。
あるいは演劇や、落語だ。
彼らが囲んでできたぶ厚い輪っかに、当のアーティストやジャンルが幽閉されてしまうという、ある種の不幸。
アーティストたちは、古参も新参も分け隔てなく、
「こっちゃおいで」
自分の芸を味わってもらいたいものなのだろうが。
残念ながら古参の輪が立ちはだかって、そうはさせてくれない。
無論、その確かな輪が自分を支えてくれているというジレンマだって、あるだろうし。
だから、そのジレンマを無視して、輪のぬくもりに惑溺すれば、それはそれで悪い気もしないわけだ。
引き換えに、どんどんマニアックになってしまうけれど。
とはいえ、古参の壁だって使い方次第だろう。
ナビとして利用してしまえば、新天地でこれほど勝手のいいものもないしね。
なんかね、古参側に「より知っているかどうか」の優越感が臭うときがあって。
そういうのを競いたがるでしょ。
すると頼りがいのあるはずのナビが、途端にノーサンキューな壁に変質するような、そんな気がするのよ。
それっぽっちの優越感、満たしたところで、実はハナクソほどの価値もないのだが。
特に、ネットがこれだけいきわたった現在だ。ただ「知っている」というだけのことの価値は、クリック一発の検索機能にどんどん希釈されていくはず。
けれど、そこは頑固に頑張っちゃうのだな。
おいら、知ってっつぉ。
んなことも知らねえのかいと。
いや、以上は、実は反省も含んでます。
あたしゃ、とあるアーティストをリアルタイムで知っておりまして。
そんな古参と後追いのファンとのやりとりに、ときに嫉妬が介在しているのをネットで目撃することがあるのよ。
ああ、親切のつもりが、そう受けとられちゃうのか。
うっかり俺もやっちゃってんだろうなと。
けれどね、
あたしの場合は、後追いばかりの半生ですから。
そんなんでいちいち嫉妬してたんでは、とても追いつかないのね。
ビートルズにしろ、ツェッペリンにしろ。
もっと言えばセロニアス・モンクだ、デューク・エリントンだ。
志ん生だと。
物心ついたときには、みんな故人だもの。
すげーなあ、と追いすがるばかりで。
たとえば黒澤明だ。
この類稀な名匠が『映画』に服従し、身を粉にして尽くしたその姿を、創作の現場では完全主義者と。あるいは『天皇』と揶揄したのよ。
逆にいえば、彼が完全主義者に徹することができたのは、それだけ映画の偉大を思い知ったからだ。
とどのつまりが、美を前にした自分の矮小をね。
その黒澤も、そもそもはゴッホという巨匠の絵に脱帽して、挫折して、映画の世界に入ったのだそうな。
ならば、それを慕うファンのみょうちきりんなエゴの差異や嫉妬なんざ、黒澤が服従した美の本質を前にしては、
ね。
ち●ぽけだ。
「どうぞどうぞ」
「いやいや。お構いなく」
「そんな遠慮せずに、いらっしゃい」
「これはどうも。では失礼して」
「なんのなんの、もっとそばにどうぞ」
「いやはや、かたじけなし」
「おたがいさまで」
うまくキャッチボールしながら、受け継いでいけると、いいのだがなぁ。
来年の初詣は、輪に加わってみようかしら。
☾☀闇生☆☽
まあね、なにほざいてんだか、と。
いろんな輪からはぐれてしまった分際が言うと、やっぱ、説得力がないぞと。