読み返してみると、たいして感想になっていない。
だもんで、ちょっち付記しとく。
引きつづき、ネタバレ注意で。
幸福値が極限にまでふくれあがると、その反作用がおこる。
となると、
ポジティヴを吸収してぱんぱんになった風船(パイパー)から吐き出されるのはもはやポジティヴではなく、爆発的な勢いを借りて変質したネガティヴだ。
たとえば、心地の良いそよ風も、勢いをませば台風の猛威に化けるように。
それは、溜め込んだポジティヴが多いほど、反動もまた大きくなるわけで。
ある限界を超えた隆盛はゼロを、つまりはリセットを呼ぶ。
この仕組み、
命を呼吸する『もののけ姫』のシシ神(=デイダラボッチ)を連想しませんか。
リセットされれば、それまで積み重ねてきた常識やらも、再考し、積みなおしとなる。
野田が敬愛し、その生まれ変わりとまで公言して憚らない作家、坂口安吾。
その代表作『堕落論』が、このリセットの下敷きにあるのではないかと思う。
堕ちるところまで、堕ちるがいいと。
して、これ以上は堕ちきれないというゼロ。そっから明日がはじまるわけだ。
その、これ以上は堕ちきれないという極限での踏み絵が、ひょっとすれば、野田が繰り返す食人というモチーフなのだろう。
姉妹の母は、踏み絵を拒んで死を選んだ。
しかしながら、残された者たちは命をリレーしようとするのだな。
ワタナベの仕事は、この踏み絵の記憶を隠すための、歴史の選別だった。
次の人類に、つなぐために。
絶望を引き継がないように。
このあたり『赤鬼』の水銀(みずかね)を、思わせる。
そして、ワタナベも水銀も女ったらし。
で、いやな奴だ。
台風のもたらす破壊は、その実、恵みの嵐でもある。
破壊と再生は、良くも悪くもワンセットだ。
ラストのあれは、あたしには安直と感じたが、そういうことだろう。
再生につける理屈なんぞ、シンプルでなけりゃ嘘になるから。
☾☀闇生☆☽
いや、
逆だな。
ネガティヴを嗅ぎつけては、それを喰って蓄積していたのか、パイパーは。
…とまあ、くりかえし反芻するのが、観劇の愉しみでもあります。
ああでもない、こうでもないとね。
相手は芝居という一筋縄ではいかない怪物(象)ですから。
そうであってこその芝居ですから。
ようするにまあ、群盲象を愛でる、という愉しみです。
明日も補足です。