「サブカルは四十代で鬱になる」
そんな言葉が、ぽーんと飛び込んできたのだ。
仕事中にね。
タレント本収集家であり、プロ・インタビュアーの吉田豪が、みうらじゅんとの対談について触れたラジオ番組でのこと。
リリー・フランキー然り。
松尾スズキ然り、と話は続いたが、あたしゃ作業に忙しく、断片的にしか記憶にない。
けれど、思ったよ。
さもありなん、とね。
この件については、つねづね考えていたことでもあって。
んが当の、サブカルのカリスマみうらじゅんの口を借りて吐かれた言葉となれば、重みがあるわけですな。
そもそも、メインあってのサブである。
意図的にそこを切り開いて、価値を見いだすのだから天然では務まらない。
王様はハダカだっ、と突っ込む側で。
してそれを無責任に嗤う観衆でもあるわけで。
ひっくるめて言えば、価値の相対化であって。
形骸化した常識に対して、非常識でものを問う姿勢であったりもする。
漫画にせよ、
ロックにせよ、
もともとはそういう立場だったの。
あたしゃ、小説だってそうあるべきだと思ってるよ。
それがたとえば、教科書というメイン側にサブが立たされるような時代になってきて。
嬉々としてNHKに出演したり。
なんせ時の総理が、公然と人気ロックバンドや漫画をひいきにしてはばからないのだから、情けないったらありゃしない。
嗚呼。
となれば「あはは、おほほ」と無責任にサブ加減を面白がってきたのに、もてはやされてメインにスイッチされていくという。
そんなジレンマがじわりと忍び寄るのだな。
作り手にも、
受け手にも。
ならばそのサブへ、
そのまたサブへと逃げても逃げても、表舞台が追ってくるのだ。
行き着く先にはニヒリズム。
こいつがぽっかりと口を開けて待ちかまえているわけで。
「おいで」
冷笑の穴の底で抱きしめてくれるのは、虚無という名の白い闇のみだと。
だって、メインがぐずぐずですもの。
そして人気こそが、至上とされていく風潮ですから。
それが民主主義の一面でもあるわけで。
ならばとメインは、人気とりでサブに媚びるのですな。
王様はハダカだっ、と叫んだ子供を、政権に取り込んだりして。んで、
メインとサブの棲み分けが、崩れちゃう。
昔、電車の中で漫画を読むのは良いか、悪いか。
そんな議論があった。
また、そんなことが議論になるような時代が、あったのだ。
漫画家小林よしのりは、立場上、一旦はそれを良しとした。
義理堅くも、自身を支えてくれたファンを守ってのことだったのね。
しかし、のちにそれを思い直し、なんと撤回したのだ。
なぜか。
そこは電車の車内という公共の場である。
そこでどうどうと読まれるような漫画には、本来のサブとしての毒が無いということだと。
こそこそと読まなくてはならないほどの刺激があってこそ、漫画だろうと。
逆に言えば、公然と漫画が読まれていくうちに、毒が抜けちゃうよと。
ひょっとすれば、
価値の優劣や、公私、善悪、メインとサブの垣根が溶解すれば、いずれ相対化地獄におちいるということを予見していたのかもしれない。
していたのだろう。
ならばその毒は、必要悪ならぬ必要毒であったと。
それゆえ彼はメイン側を、そして価値を、あえて漫画で語らねばならなくなったのだろうと思う。
そして、それが皮肉にも、毒として人々の刺激になったと。
落語会の反逆児とも言われた立川談志も、どこかで愚痴ってましたな。
本来、壊す側の立場であった自分が、ときに伝統の本道を語らなくてはならなくなってしまったという、皮肉。
壊す対象がぐずぐずですから、仕方が無いのだ。
だから、真打正真試験の科目に、日本舞踊を入れたりして、守りつつ壊さねばならなくなったのであり。
あたくしごとで言えば、エロ業界。
あえて『貴賤』という死語を持ち出して話すが、ゆるせ。
それは『賤』側の世界だ。
そこでは誰の中にも共存している『公・私』の『私』をうけもつ。
獣性をあつかう。
ゆえに『賤』であり、それは『貴』が『貴』であってこそのもの。
けれど、ここの境界線もまた日々壊されていくのですな。
相対化されて、『賤』が賤でなくなっていくのだ。
となれば『貴』もまた溶解していくほかないわけで。
刺激は日々稀釈され。
棲み分けがあやうく…。
とまあ、
いたるところで、あらゆる価値の境界線が壊れていくわけよ。
勇気と怯堕や、
美と醜のね。
吉田松陰の逸話にこんなのがあるんだ。
幕末。
松陰と獄を同じくした吉五郎というやくざ者がいて。
松陰先生は、遺言(留魂録)をこの吉五郎に託したのだそうだ。
幕府にみつかれば、間違いなく破棄されるであろうその手紙。
それを故郷、長州藩の弟子に届けてくれと。
まもなく松陰は刑死。
が、やくざものは島流しに。
やがて維新のどさくさのあとに、新政府が樹立する。
倒幕の志士でもあった松陰の弟子たちは、できたての政府のポストをほしいままにしていた。
とそこへ、かの吉五郎が、乞食同然に身をやつした姿で現れるのだ。彼はその手紙を確実に届けるために、放浪していたのである。
面会した長州出の官僚は、彼が松陰先生の手紙を携えていることに狂喜した。
その功に報いてやろうと、役人は彼のために謝礼をくれてやろうとするのだが。
なんと吉五郎はこれをあっさりと固辞。
みすぼらしい姿のまま去ったという。
彼が届けた手紙は、貴重な史料として歴史に残ったが、吉五郎のその後は誰も知らない。
棲み分けのたしなみ、とでも言おうか。
分別といったほうがよいのか。
やくざものに卑屈は微塵もなく。
かえって渡世人の矜持が、そこに色あざやかに焼きついて。
対応した新政府の役人の、おのぼりさん的野暮天と対比されて、なんとまあ鮮やかなことか。
んで、それゆえの美談だ。
はばかりながらこのエロ屋。
ここブログでのへりくだりは、吉五郎のスピリットをお手本としている、、、つもりよん。
☾☀闇生☆☽
これって同業者にあまり理解されないのだな。
ばかりか、誰にも。
エロ業界で食いながら、エロを蔑視する業界人というのが一部で批判されていたらしい。
(雑誌『紙の爆弾』十一月号、深笛義也)
それに対して、評論家呉智英が、職業に貴賤があるのは事実だから、それの何がまずいのかと指摘。
(産経新聞『断』、「職業に貴賤あり」)
あたしゃエロ屋でありながら、この呉智英氏の文章に深く同意する。
しかしながら、日々の経営がそれでは立ち行かないと。
自分の職業を蔑視してなげやりになったり、あるいは自分だけ潔癖ぶるなんて、サイテーでしょ?
だから深笛氏がとなえたという、それにも同感である。
なにより、バイト君への指導にもひびくと。
そんな無理から、上に書いた境地が、導き出されてきたわけよ。
呵呵。
御嗤いくだされ。