「富士山の五合目まで、電車でいけるようにしよう」
そんな構想があるのだという。
富士五湖観光連盟によるもので、曰く、自然界への悪影響は少ないとのことだ。
富士山の環境についてはこれまでいろいろあった。
登山者による屎尿問題や、
有料道路からの排ガスの動植物への影響など。
そこへ電車が通れば、まず排ガスの影響も軽減されるし、車両の搭載人数にも制限がかかるから、過度の入山による被害も減るのでは、というのだが。
どうだろう。
開通によって冬季の入山制限も解かれて、地元の経済も活気をもつはずだという。
むろん、それに対して、雪崩を心配する声もあがった。
これね、
どうも気に入らないのだな。あたしゃ。
この、分別なく、なんでもかんでもバリヤフリーにしてしまおうという、「NO BORDER」がね。手前中心で、
好きくない。
簡単には行けないところがあって、なにが悪いの?
別に通常の社会生活に不可欠な施設だとか、そういう問題ではないでしょ。これ。
ましてや『霊峰 富士』と崇敬されてきた山よ。
山自体が御神体よ。
神さまだ。
なのにさ、
経済だ、利便性だと、そういう『利』や『損得』でばかり語っちゃっていいのかね。
たとえ環境の視点で語っても、とどのつまりは人間社会へ跳ね返ってきますよという『損得』にうったえるしか能がない。そんな、あたしたちだ。
それでこその俗物だ。
どうだ、俗物だ。
電車内のケータイのマナーだって、やれ「電磁波」だのなんだのと科学的根拠でラッピングしなけりゃ飲み込まないのであーる。
舌が、妙な肥えかたしちゃってんだな。
だから富士山もこうなるのは分かりきってはいましたがね。
日本の神は損得に負けるだろうと。
けど、やっぱ寂しい。
あたしゃ一度も登ったことがないけれどね。
実は、通勤の電車の中から一瞬だけ、見ることができる。
晴れている日に限ってだが、富士山のちょうど雪のあるあたりだけが数秒間。
乳輪からトップにかけて。
いやん、チラリズム。
それに気付いている人は、その瞬間だけ、窓のほうへ首を伸ばす。
今日は見えてるかな、と。
見えたところで、どうせ登山者の糞尿にまみれているに違いないのだが。
そこはやっぱ、見ちゃう。
糞尿を見ちゃう。
動作的にもそれは不合理きわまりないふるまいなのだが、見ちゃうね。
さっき御神体といった。
んが、そこには教義も戒律もない。
なんせ国家神道として統合されるはるか以前からある信仰だもの。
そういう素朴でおおらかな神々への想いというものは、日本人の根底に知らずに横たわっているわけで。
堅苦しいマニュアルなんぞはないのだ。
それはもう、
「マニュアルなんかいらないっ」
というマニュアルすらも要らないほどであーる。
んで、
ここであえて損得に訴えるならば、
そういう気持ちの集まりがこの国の自然を、ひいては生活環境を、支えてきたのでもあり…。
などと、のたまいはじめると、やっぱキリがないな。
そもそもが、のたまいの外側の問題なのだろうと考えていたりするのだ。あたしゃ。
昔ね、
司馬遼太郎が北条早雲を描いた小説を読んだの。
で、それにちなんで小田原城を訪ねたのだ。
まあ、北条の世の面影など残されてはいないことを承知でね。
けれど、案の定、がっかりしてしまったのだな。
まず城内に、客寄せなのか、申し訳程度の動物園があって。
象がくたびれていた。
夏の暑さに、へこたれてもいた。
いざ天守閣へ、と思って見上げると、コイン式の備え付けの双眼鏡の影が、いくつも張り出していて。
踵を返して、逃げもどってきたよ。
なんか、あのときと似た凹みなのだな。今回のは。
大阪城のエレベーターはもっとひどいが。
実現したら、さらにげんなりすることでしょう。
ああ、そうそう。
四国八十八箇所巡りのバスツアーの存在を知ったときも、似たものを感じたっけ。
こうして価値をすりつぶして均していった先に何があるのか。
というか、日々それに見舞われてますよね。我々の心は。
すりつぶされてできた荒野に。
坂口安吾の言ったように、堕ちるとこまで堕ちれば、いずれ価値の支柱ともいうべき棄てきれない至宝がみつかるとでもいうのか。
などと大袈裟に考えてもみたが、さほど大袈裟でもないので、ブログとしてつまらない。
と、ここまで書いてきて、ふと思った。
かぐや姫やウサギが餅をつく世界であり、古今東西の音楽家や詩人が思いを馳せたあの月に、人類がはじめて足跡をのこすことになったあの日のことを。
ひょっとしたらあたしのようなヘンチクリンの、デキソコナイはみな、似たような感慨を持ったのかもしれず。
だとすればこれは、年寄りのノスタルジーと、一笑にふされるのだろうと。
☾☀闇生☆☽
見たい、行きたい、の欲望は底なしだからなあ。
民主主義の世では、その歯止めのさじ加減を、自分たちで探さなけりゃならぬのだ。
馬鹿を承知で権力者という悪役をかって出てくれる人なんか、待ってても埒あかないのだし。
追記。
たしか筒井康隆だったか、
あるいは小松左京だったかの短編にあったんです。
アポロの月面着陸の瞬間を、SF作家たちで集って迎えようと。
そんなことが当時あったらしく。
さんざん月という未踏の世界の幻想性を利用して食ってきたものだから、ちょっとしらけるような。
といって、アポロとその偉業は当時の科学の結実であり。
SF作家たるもの、歓迎しないわけにもいかず。
そんな気分が書かれてあったような気がするのですが、昔のことなので、いい加減です。
酔っ払っているうちに、着陸の瞬間を見逃しちゃった、というくだりがあったのを記憶してはいるのですが。
でもまあ、今では笑い話と。
そして富士山の神聖さも、いずれ、そんなふうに片付けられるのでしょうか。
聖なるおっぱいを、欲望の糞尿から守りたいものです。