立川談春著『赤めだか』扶桑社
一気に読んだ。
師弟関係というのは、やっぱ俺にとってツボなのだ。
たまらん。
ましてや、視点がやさしくて。
まだ駆け出しの弟子が仰ぎ見た、天才立川談志という。
だから、あたしのような凡人にも共感しやすいのである。
そして談志とその師匠、人間国宝小さんとの逸話もまた、いい。
実に、いい。
文中で談志(イエモト)が口を開くたびに、このあたしも前座の談春になりきって耳を傾けた。ともに背筋を凍らせ、笑い、考えつつ読んだ。
徒弟制度というのは、いまや特殊な分野にしかのこっていない。
だから、ここで描かれている前座たちのひもじさや、師匠のふっかける無理難題、へんちくりん、あんにゃもんにゃ、すっとこどっこい、才能の格差、あるいはそれらへの心労や嫉妬もまた、特殊であると思いがちだ。
けれど実際は、どうだろう。一般社会では知らず知らずにオブラートにくるんで見えにくくしている人間のナマが、
ぺろん、
露骨になっているだけではないのかと、思った。
大人になると、頭ごなしに怒ってくれる人なんかには、そうそう出会えない。
ばかりか、日常的な理不尽は、遠ざけるばかりで。
だから下手すると、下手したまんまだ。
拘束時間にあわせて、自動的にお給金にあずかったり。
なんとなく年月とともに出世できてしまうコースすらあったりして。
ナマな自分とも、他人とも向き合わずに、のおのおと鼻毛を伸ばして生きながらえてしまえることも、まあ、ないことじゃあない。
けれど、この芸の世界ではそこがなにより露骨なのだ。
となりゃ、もろもろ、シビアよ。
才能も、
技術も、
了見も、みんな直で試される。
言われた事だけをやっていても、決して真打にはなれない。
まず、言われた仕事や稽古をそのとおりにこなす、という。それ自体が大変なのだが。
ともかくも日々、人間が試される。
そのうえ、何年前座をつとめても、立川流では二ツ目にあがれるとは限らない。
真打ならなおのこと。
仮にマグレが重なってそうなったとしても、それで売れるとはかぎらないし、保証もない。また、その芸が残るとも限らない。
ザコ倒しつづけていればレベルアップするRPGのようには、いかんのです。
でもね、本質は、一般社会でも同じはずなんです。
無理難題をふっかける師匠が、たとえば社会なら顧客の『流れ』であったり、得意先の『気分』であったりするわけだ。
でも、現実に客の『ながれ』は、クレームひとつこぼしてくれやしない。
『気分』も『ながれ』も目には見えにくく、理屈や正論が通らない。
黙って遠のいてゆくばかりと。
このナマの付き合い『徒弟制』に代わるように目立ってきたのが、これ。
『専門学校』
その過程でライセンスを取得できる種類の学校は別として、映画や、アニメ、声優や、ゲーム制作、ミュージシャン、お笑い、あるいはファッション系の専門学校もまた、そこを卒業できたからといって、プロのお墨付きをもらえるとは限らないわけで。
ましてやお墨付きで食える世界でもなく。
だから必死に学ぶべきなんでしょうが、いかんせん、それは商売だ。
生徒はお客様である。
門戸はゆるゆる。
それほどの熱意がなくても、出席さえしていれば卒業はできてしまうところばかりだ。
むろん、中にはそこで腕を磨いてチャンスもモノにする人もいるでしょう。
けれど、少なくとも徒弟制度のように叱り飛ばされはしないし、しくじりも、破門もない。
そして、ベルトコンベア式に卒業してから思うのだ。
お客様として欠かさず出席していたのに、はて、なんでプロになれぬのだと。
なんだかんだ言っても、
結局は、人間のナマを相手にするほかないのである。社会っつーもんは。
実は、恥ずかしながらこの闇生、某映画専門学校に籍を置いたことがある。
んが、
その最初の夏休みだ。
後期の授業料を振り込むその直前に、ふと思い直したのだ。
そこの講師陣は、現役で活躍するプロという触れ込みで。
それ自体にうそ偽りはなく。
けれど、本当であるからこそ、講師に急の仕事が入って授業が自習になったりする。
それもちょくちょくそうなる。
自習といったって、そこは映画である。
なにをどう自習せえと。
よって、やることがない。
気がつけば、そんなこんなで、決して安くはない前期の授業料を費やしてしまっているではないか。
アホくさ。
期限ぎりぎりで思いとどまって、電話ボックスから実家に電話をした。
オレ、オレ。
後期分の、振り込まないで。
いまどき、オレ、オレと名乗って「振り込むな」と言う息子も、珍しい。
それはともかく、
あたしゃ、わずか半年で学校をやめたのである。
いまにして思えば、それほどの情熱もなく、少しも映画に詳しくないままに飛び込もうとした世界だった。
つまり、甘かった。
甘ちゃんだ。
これが徒弟制度なら、門前払いか、根気が尽きてリタイアかといったところだったろうに。こともあろうに俺は、授業を予定通りにこなしてくれない学校を、見限った。
これは、落語界でいえば、稽古をつけてくれない師匠を恨むようなもので。
ようするに、
そのつもりはなかったのだが、どこかやはりお客様気分だったのである。あたしゃ。
プロになる、のではなく、プロにしてもらう、と。
そういや、
先日読んだ押井守の本にもあったな。
学校なんか回り道。本気なら、現場の門をたたけと。
休憩時間にタワーレコードに走る。
爆笑問題の太田光が演出したという談志のDVDを、読後の勢いを借りて購入。
天才の噺に下手な演出はいらねえんだよ。
発売当時そう見切って、これまで独演会のばかりを買い集めていた。
若くしてすでに完成して、
けど、そこに決して安住しようとせず、
陶匠が自分の作品を壊して精進をつづけるように、いまだに談志は自分を超えようと挑み続ける。一旦完成した芸を壊しては構築しなおすことをやめない。
再・生、とはそういうことだ。
それこそが伝統といえるもので。
異端のように言われてきた談志だが、実は、もっとも伝統的な姿勢であったという。
ならば、
太田の編んだのもまた、まあ、そんな談志の戦いの記録には違いないと。
☾☀闇生☆☽
落語はリズムとメロディでおぼえろ、か。
名人たちの噺が、何度聞いても心地よいわけは、そこなんだな。