今日の産経新聞にあった興味深い特集。
それは例の秋葉原の無差別殺傷事件と、その余波を考察するもので。
『続17人殺傷の衝撃 上』
記事のなかで記者は、犯人の加藤に影響を与えたとされる人物を、水戸拘置支所に訪ねている。
その人物とは、金川真大。
土浦・荒川沖の無差別殺傷事件の容疑者である。
犯行動機を聞かれて被告は、生きていることがつまらなくなって死のうと思った、と。
しかし、自分の身体に痛みを加える勇気はなく、よって自殺という選択はなかったと答えた。
そして、彼はこう続けるのだ。
この世から解放されて、ファンタジーの世界に住み、悪を倒して人々を守りたい。
なんだろうか、これ。
人々を守りたいという願いでもって、人々を殺傷するという矛盾。
いや、この世の人々を、悪と、見なしているのか。
生きていることをつまらなくさせた連中として。
つまり善人は、ファンタジー世界(あの世)の住人であると。
さらに暗澹たる気持ちにさせられたのは、アキバ事件の加藤を、ただの八当たり、と見下している点。
目くそ鼻くそ、といえばそれまでだが、そんな生ぬるい表現では追いつかない。
大坂のビデオボックスの犯人もそうだったが、厭世感で無差別殺人をやらかす輩というものは、死にたがるくせに結局は自決に踏み切らない。
死にたいが、痛いのは嫌だということだ。
自分が苦しむくらいなら、赤の他人にそれを代わってもらおうということ。
のび太的発想ではないか。
また他方で、
たとえ自決を選んでも、練炭でのそれのように、やはり痛みを安易にさけたがる人がいる。
またこれらとは逆に、痛みによって生を実感しようともがく人たちもいる。
リスカなどの自傷や、過激な苦痛系SMプレイに身をゆだねる人たちだ。
どうやら現代では、日常生活にともなう苦痛と死が、遠のきすぎているのではないのだろうか。
苦痛や死があって、愉悦や生が際立つはずである。
そのどれもが日常を構成する重要な要素だろう。
ところが、今や苦痛というものも、肉体的な分かりやすい痛みではなくなっていて、つかみどころがない。
苦痛がなければ、愉悦もない。
死もまた、日常的に目にする光景ではなくなってしまった。
生の輪郭線を決定しているのは、死だろう。
それはたまごの黄身と白身のように抱き合う関係で。
だから死が遠のけば、生もまた曖昧になっていくはず。
思うのだが、たとえば戦争というものを十把一絡げに『悪』として扱う考え方の中心には、この『死』への異常な恐怖感があるのではないのか。
それはひとまずいいとして、その恐怖の正体として『苦痛』の一面だけを強調しすぎたのではないのか。
それはただちに「ならば苦痛さえとりのぞけば」死は恐れるに足らずとなり、どちらにしても、『死』の意味からは目を逸らされてしまう。
死の意味を考えるということは、生の価値を考えるということだ。
双方の境界線にあたる苦痛そのものをあまりに強調しすぎたせいで、現代人は生からも死からも、はぐらかされてしまったような気がする。
となればそれに伴う苦痛にも、意味がなく。
意味がなければ、排除するに越したことはない。
(また、であるからこそ、意味のない苦痛(自傷など)を経て得た『生』は、所詮は仮想であって。ゆえに常習化する。)
無差別をやらかした連中は自分の死を、ヴァーチャルに追いやっていたのだ。
苦痛がない世界に。
かつての武家では、子供の元服に切腹の作法を教えた。
古臭いことを持ち出して、すまん。
その理由と根拠は、いろいろあるのだろう。
んが、死を教えるということで生をわきまえさせる意味もあったのではないだろうか。
つまり、子供は普通、自分があたりまえに生きているから、生きているという実感がもてない。
惰性で暮らしている。
そこへ死という生の輪郭を意識させることで、生を実感させようという。
それは自分の生を(=死を)掌握するという、真の自由への門出でもあるのだが、それは大義に依ってこその自由であると。
同時に、大義の前には、ちっぽけな自分の苦痛を差し出すケースもあるということを知る。
そしてその自由は、決してひとりよがりに振りかざせるしろものではなく。
大義なくしては自決も、他殺も許されないのである。
なにやら身の丈を超えたことを、性懲りもなくつらつらとやらかしてしまった。
すまぬ。
ところで、
世界経済は大変なことになっているようで。
これもまた実体のない象徴経済の破たんから始まったことであって、なんのことやら。
ちんぷんかんぷんじゃわい。
破たんの実感はなく、
あるのは下落する数字の報告のみで。
にもかかわらず間違いなく我々の実生活に響く大事であり、さながらそれは苦痛のない死。
ヴァーチャルと現実の境界線が溶解していくようでもある。
☾☀闇生☆☽
お。
晴れてきた。
散歩に出よう。