日本人の、相次ぐノーベル賞受賞のニュース。
どん詰まりの世情に、ぱっと映えてます。
なにより日本人受賞者のコメントが、気持ちいいではないですか。
古きよき日本人の含羞、謙遜、先人へのリスペクト精神に富んでいて。
そこには「自分をほめてあげたい」式のナルシズムはみられない。
かっこいいとはこういうことだよ。
そんな気質のうち二人が、米国在住というのも、なんだかね。
なんだかなぁ…。
含羞も、
謙遜も、
いまや通じにくいご時勢だもんで。
それらは情報にとって余白であり、また飾りであるからして、邪魔臭いわい、とデリートされる。
だから、日常のやりとりは味もそっけもなく、額面どおりに交わされがち。
特に、ものごとの結論だけを簡単に検索出来るネットに飼い慣らされると、実生活のコミュニケーションもそれに沿って安直になりやすく。
褒められたら、褒められっぱなし。
謙遜されても、謙遜させっぱなし。
「つまらないものですが」
と差し出されたものは、つまらないものとして受けとられる。
挙句、嫌なことは無視か、噛み付くかの両極端と。
対人関係に、きもちのよい弾性を保つには、それら余白を丁寧にくみ上げていく『機微』が、必要不可欠なのではないのかなぁ、と思うのですが。
とくに、ますます世知辛くなっていきますでしょ。これから。
紋切り型の対人関係はシンプルで風通しがよいが、度が過ぎると心象風景を殺伐とさせるでしょう。
させるものか、と思いますが。あたしゃ。
たとえば感情の皮膜として、
機微という柔らかな風船があるならば、
その暴発はやわらげられるし、そもそもの起爆も、誘爆も、ない。
問題はこの『機微』なんつー言葉だ。
それ自体がすでに死語と化してんじゃねーかっていう。
うん。
昨今は、心のままに、思ったことはなんでも言う。というのが美徳のように扱われてますが、あれもどうなんでしょ。
裏をかえせば、どうよ、あたしの心はキレイでしょ、といったところだろうか。
なんだかなぁ。
それ自体、キレイじゃないなぁ。
そういや、
先日引退した王監督もね、機微がわかって気骨のある、古き良き日本人気質でしょ。
台湾出身ですから。
日本統治時代を経た台湾には、そういう気質がまだ辛うじて生き延びていて。
李登輝さんとかね。
とまあ、
受賞者の世代を考えると、そういう失われつつあるものを、考えずにはおれないわけで。
いわずもがな、不肖闇生、耳も痛いわけで。
☾☀闇生☆☽