「おいでよ」なんて書いてはみたものの、翌朝読み返して自分で、ひいた。
きもっ。
てか、こわっ。
さぶっ。
『たま』の傑作アルバムに『ロケット』というのがあって、そのラストを飾る曲にでてくる印象的な言葉なのである。これは。
はて、何ゆえ呼ぶのかというと、
「ぼくのドアを、叩きに」
孤独だ。
なんせ「電気ザルが笑っている」寒すぎる星にぽつん、ひとりでいる「ぼく」の唄なのだから。
『寒い星』
そのせいかどうかは知らんが、ひっさしぶりに映画『スター・ウォーズ』を観た。
えへん。我ながら強引である。
しかもエピソード1〜3。新シリーズの方である。
たぶん旧シリーズ(エピソード4〜6)をリアルタイムで観た人たちのあいだでは、このシリーズ、賛否両論が激しいのだと思う。
そうさせるくらいに旧シリーズで提示された宇宙観は、当事、刺激的だった。
言ってしまえば「事件」だったと。
で、それがゆえに、新シリーズへの期待は否応にも高まって、結果、そんな両論がいまだとめどもないというわけなのでございましょう。
シリーズのマニアも、それこそ星の数ほど生まれたものである。
そんなこったからあたしのようなのは、そんなマニアに気兼ねして二の足を踏んでしまっている次第でして。
ようするに、好きになりそこねた。そんな感じなのである。
無論、嫌いじゃないさ。
ああ、そうさ。
けれど、あちき程度の知識でスター・ウォーズが「好き」だなんてのたまおうもんなら、寝首かかれるんじゃないかって。それぐらいに、マニア諸氏はその「好き」の度合いを徹底して追及してやめないのである。
だから、知らずにうっかりのってしまうと、
「俺のほうがもっと好きだ」
「うんにゃ、おいらのほうが知ってる」
というスター・ウォーズ・ウォーズがおっぱじまるという。
だから初めに言っておこう、あたしゃ「詳しくありません」と。
特に、新シリーズに限っては、好きになりたいのに、という「のに」の感情ばかりがわいてしまうレベル。けれど、それもまた無知ゆえの感想なのかもしれないし。
ともかく、以下、つらつらと。
フォースといわれる力がありますでしょ。この映画のお約束として。
平たく言ってしまえば、念力みたいなもので。
物体を動かしたり、あるいは、相手の知能によってはその人を操ることもできる。
で、そのフォースには暗黒面があって、それは憎しみや恐れなどの人間の負の一面を原動力にしていると。
よって、フォースの使い手であり正義の騎士であるジェダイたちは、このダークサイドを諸悪の根源とみなし、敵視している。
であるからして映画は、フォースの陰陽の違いに、メリハリをつけなければならない。
それがうまく表現できたのが旧シリーズの一場面だ。
若きルーク・スカイウォーカーと、彼にフォースの稽古をつける老師ヨーダ。その師弟のやりとりである。
どうしてもフォースをうまく使えずに、修行をなげてしまうルーク。そこでヨーダは自らフォースを使って、沼に沈んだ宇宙艇を見事引き上げてみせるのである。
お手本ですな。
そのときのヨーダの表情なのだ。見事なのは。
心を澄ますように目を閉じ、柔和になって、念じる。
邪念や負の感情、そして力を抜いてこそ、力が出るのだぞと。
けれど、年老いたヨーダはそのあとぐったりと。
でね、
これをさらに分かりやすく表現したのが、新シリーズのエピソード1。
ダークサイドの使い手ダースモールと闘うジェダイ騎士、クワイガンジン。そしてその弟子、若きオビ・ワン。戦闘中にこの三者を、時限式で開閉するシールドが分断するくだりである。
ダースモールはシールドの向こうで、苛々とそれが開くのを待っている。
カモンっ、クワイガン。てなとこでしょう。その形相、さながら猛虎のごときで、まさに憎悪の人。
対するクワイガンジンはそれが時限式だと知ると、静かにそこに正座し、目を閉じて、ゆったりとシールドの開くのを待ちはじめる。
一方、その師匠のもとに一刻も早くはせ参じたいオビ・ワンはといえば、これもまたシールドにはばまれていて。しかし弟子であり、若く未熟であるからして、今か今かとひとり焦燥している。師匠を援けねばと。
この対比としての三者三様は、うまかった。
しかし残念、というか、おや?と思ったのがエピソード2である。
ダークサイドに寝返ったドゥークー伯爵と、ヨーダの対決。
かつての師弟関係でもあるらしいこの二人。
ドゥークーはまずは小手調べとばかりに、ヨーダの頭上の天井を落下させる。
無論、ダークサイドのフォースで。
これをヨーダはやはりフォースで受けるのだが、このときの表情が、どーにもいけない。
この対決を通してそうなのだが、フォースを出すときにヨーダの顔に力がこもるのだ。
憎悪、とまではいかないが、敵のダークサイドとの対比として、どうかと。
ピンチほど力がぬいて力を得るのがジェダイではなかったのか。
そこがね、観るたびに惜しいなぁと、思うのですわ。
はい。
ましてや新シリーズは、回を追うごとにアナキンが憎悪の虜になっていくながれですから。
たとえばエピソード4では、オビ・ワンとダース・ベイターの決闘がクライマックスだが、この老境のオビ・ワンは見事に力が抜けている。
どころか、死を目前にして、謎の笑みすら浮かべるのである。
ついでに、
このあとオビ・ワンは消える。
決闘に負けて、死体が残らない。
彼ばかりか、ヨーダも死と同時に消える。
ダース・ベイダーも消える。
そして、消えた連中は、生者の心に呼びかける。
エピソード6の大団円では、半透明になって再登場までする。
なぜかアナキンだけは若い姿で登場だ…。
ところが、
これとは対照的に、クワイガンジンの死体は残る。
そして火葬までされる。
新シリーズには、「消える」死がないのである。
思うに、死を受けいれたかどうかが、消えるか残るかを左右するのではないか。
オビ・ワンしかり。
ヨーダしかり。
ルークとの和解を経て逝ったベイダーしかり。
けれど、クワイガンジンや、他の騎士たちは不意打ちやだまし討ちでの死なので、それを受け入れる覚悟もないままに、逝ってしまったと。
ダークサイドに落ちて寝返ったドゥークーの死は、怖れの中での死であるから、いわずもがなだ。
なんか、いまさらスター・ウォーズ語っているのも、とんちんかんな話で。
けれど、観たときがタイムリーなのだから。
そこはひとつ、許されよ。
ましてや新シリーズは、米国と中東との衝突による殺伐としたきな臭さのなかでの公開だった。
ゆえに、映画の中には、ときに直接的な現実へのメッセージが垣間見られ。
憎悪の連鎖に、クローン技術などの物量作戦が、火に油とばかりに争いを泥沼化させていく構図でもあったし。
そこに武士道の精神論からヒント得たジェダイが、追い詰められていくという。
滅び行く、武士。
付け加えれば、闇生。あまり他人の感想を検索しないので、この感想がベタなのか、見当違いの大暴投なのかもわからない。
まあ、そこはひとつ、
「さぶっ」
天然ということで。
ね。
☾☀闇生☆☽
同じように、あの頃、映画ロード・オブ・ザ・リングも、米国と中東の構図を意識していたようで。