休日を終えて出社してみると、店の共有パソコンの『お気に入り』にひとつ、見慣れぬサイトがマークされてある。
バイト君の仕業に相違ないのだが、題して、
『リアルな「うんち」の描きかた講座』
しかも動画だ。
俺のいないスキになにを見てんだか。
まずは店長として呆れた。
んで当然、呆れつつもクリックした。
実に丁寧に、しかも包み隠さずにその奥儀を伝授してくれているではないか。
なるほど。
そーやればリアルになんのかと。
「うんち」と断ってはいるものの、質感に即せば「うんこ」あられもない。
少年の日。だれしも巻きうんちくらいは描いたことがあるはずで。
少年の現場では、ソフトクリームのように三ひねり半が定番で。
とりわけトップの切り具合を、その加減を、みなで競ったものである。
頂上のちょんまげのくねり具合に、質感のありったけをたくすのだ。
うんちとはこういうものだと。
俺のがうんちだと。
ちなみいえば小学三年生の正月、あろうことか年賀状にこの巻きうんちと金玉を描いてよこした同級生がいた。
子供にとっては強力なツーショットである。
いわば王と長島だ。
馬場と猪木だ。
ガキなりに、皺まで書き込んだ鉛筆画で。
金玉なんぞは、胴体から離れて宙に浮いているという、独立した像である。
浮かぶ巻きうんちと、金玉。
干支もなく、ただそれだけ。
だから、シュールこの上なく。
届いた賀状は、母がひとつひとつそのデキを寸評しながら各人に選り分けていたのだが、無理も無い、そればかりは黙殺されたのを今でも覚えている。
友はいったい、俺に何を訴えようとしたのだろう。
小学五年のときだったと思う。
校舎に何者かが侵入した形跡があって、警察が調べに来たことがあった。
壁には彫刻刀が刺さり、あちこちの教室が荒らされていた。
さいわい何も盗られはしなかったのだが、逆に侵入者の置き土産があって、それが何を隠そう、うんこだったのだ。
奴は教壇の横にブリキのバケツを置き、律儀にもその中へ放っていったのである。
ブツを。
侵入して教室を荒らすようなワイルドな奴なのだから、床にでもぶちまけていくだろうと思うのだが、違うのだ。
そこに美学でもあるのだろう。拭いた形跡も見当たらなかった。
確かなのは、そのとき級友たちと覗き込んだバケツの側面。マトを外して絶壁にへばり付いた、か細いブツのその圧倒的なリアルだった。
我々は、それまで絵に描いてきた巻きウンチの幼稚を、まざまざと思い知らされたわけで。
所詮は絵空事にすぎなかったと。
こうして経験を積んでくると、くだを巻いたうんちのファンタジーではいよいよ飽き足らず、ついに『うんこ』を意識し始める。リアルを求め始める。
影を付けたり、
蝿を飛ばしてみたり、
湯気を立ててみたりと。
ついには、意を決してとぐろを解いてみたりして。
それは自転車の補助車を卒業するときのような心細さと、スリルだ。
しかし、そうするうちに、その道の険しさを知り、大概の子供は大便を描く興味からは冷めていくのだが、中にはうんちを描くことからブツそのものへの興味に変化していく人も、…いる。そりゃあ、いる。
しかしながら、それでもなおこの動画の作者のように、かたくなに便画道を極めんとする者がいて。
そう、便画道と呼ぼう。
こうしてウェブ上でミを結ぶのだから、貫かれる童心というものは、やはりあなどれないものである。
継続は力なり。
おめでとう。
そして、おつかれ。
☾☀闇生☆☽