賢しらぶってストリートビューのことを書いていたら、また『ポニョ』のことを思い出しちゃったよ。
再三、すまぬ。
「大切なものは半径3m以内に全部ある。」
映画のコピーは、確かそうだったはず。
むろん、社会的成功者としての宮崎駿のご自慢ではないでしょう。
俺、全部もってるもんね。
んなこた、いわずもがな。
ましてや、パソコンひとつありゃ事足りる。というのでもない。
あの映画にはケータイすら出てこないのだし。
ネットの先ではなく、自分の生活の現場を見つめよ、と。
がつん、と一発おっさんをかましたのである。
一見平凡に見える日常にこそ、守るべきものも、葛藤すべき対象も、素敵なものも、全部そろってるよ、と。
その円を知ることが、本当の世界を知ることで。
なんせあらゆる真実はフラクタルに手をつないでいるのだから。
「よく動いている独楽ほど、止まって見える」野田秀樹
いわゆる平凡の正体とはそんなもので。
かつて「平凡なサラリーマン」とか「平凡な主婦」などという言い方で、自前の半径3mと真摯に向き合っている生き方を、忌避してきた時代がありまして。
なんだか退屈だわ。
現在でもそうですが。
その反作用で自分探しなんていう、犬に自分の尻尾を追いかけさせるような、けったいな風潮に踊らされることになる。
けれど、それは日常が止まって見えていただけのことであり。
言い換えれば、よく見ていなかっただけのことではないだろうか。
独楽は回っていたのである。一見、止まって見えるほどに、凛として。
活動的に見える独楽も、実際は安定を欠いて止まりかけているだけのことで。
ぐらぐら、あたふたと。
言い換えれば、
「非凡なサラリーマン」
「非凡な主婦」
「非凡な生活」
なにやら臭ってきやしまいか。バブリーが。
日常の半径3mの宇宙に感動できないようでは、どこへ行っても同じ事なのだ。
かつて宮崎はこんなことも言っていた。
若い連中がもってくる企画。そのどれもが似たり寄ったりで。
自宅アパートと、勤務先。それにコンビニかビデオ屋を加えたちっちゃな三角形の生活圏。そこで退屈している平凡な主人公。
んが、ある日ハプニングがおこると。
それは突然身につく超人的な能力だったり。
不思議な少女との出会いだったりと。
それは三角形の日常に退屈している作者の願望ではないのか、とな。
「何かおこんねーかなぁ」
てな棚ボタ式にね。
マグロなんだな、主人公は。
この逸話を思い出したのは、映画『スカイクロラ』のクライマックスでのこと。
ティーチャに挑む主人公のモノローグが、まさにそんな若者を意識して構成されてあったのである。
あれは原作に無い、映画ならではのアプローチだった。
その監督を務めた押井守が、このたび新書を出したという。
『凡人として生きるということ』幻冬舎新書
ジャパニメーションの先駆者として、また変革者としてその名を知らしめた彼にして、このタイトルである。
新聞の紹介文によれば、失敗を恐れるあまり他人とのかかわりを避け、漫然と生きる現代の若者に、常識にとらわれない生き方を指南する、とある。
ブームに隠れた本質を見抜き、自分の立ち位置を確認することで、己の美学が生まれる、とも。
半径3mを、そして己の立ち位置を知るということは、なにも内向きになるということではないだろう。
繰り返すが、そこにこそ世界を汲むのに必要な呼び水があるということではないのか、な。
とかなんとか。
またのたまっちまったぞ。
どーするよ。
エロ屋のくせに。
連日、退屈な記事ですまぬ。
☾☀闇生☆☽
半径3mの宇宙を開拓する術。
その腕を磨くアイディアに、たとえば俳句がありますね。
時をこえてリレーされてくる知恵というものは、ありがたいもので。