壁の言の葉

unlucky hero your key


 熱帯夜。
 うつらうつらしかけたときに、蚊に食われることほど、不愉快なものはない。
 ましてやそこが足の裏であったりすると、なおさらで。
 掻いても、かゆみの芯に届いていないような。
 そのもどかしさが、不愉快に輪をかけてくる。
 いっそ掻きむしって清々したいのだが、なぜだろう、届かない。
 指は、そしてその爪は、精確にマトを得てはいるのだが。はて。
 邪魔するやつはあれか。角質か。
 手のひらの場合も、また然りで。
 掻いても掻いても、掻けていない。
 けど、
 というか、だからこそ、ちゃんと掻きたい。
 掻けた、と実感したいのだ。
 でないと血液の盗られ損ではないか。


 おのれ、蚊んめ。


 掻きにくさでいうと、不肖闇生、男子たるものの『皮』をやられたことがござった。
 いったいどんな状況下ならそうなるのか。そこんとこはひとつ、患部が患部だけに触れずにいてほしい。
 触れても、やさしくしてほしい。
 ともかくだ、なんたる恥辱か。
 恥はかいても、掻かせてくれないのだから。いけずぅ、と。
 なんせ現場は融通無碍なる『皮』なのである。
 じっとしていてはくれないのだな。
 柳に風はのらりくらりと、どこ吹く風なのであった。

 
 嗚呼、掻きたい。


 そういえば先日、いつもあたしの休日を埋めてくれているバイト君がやられた。
 それも勤務中で。
 こともあろうに、鼻の頭をだ。
 いわずもがなそこは、視覚と聴覚という監視システムが二重に働いており。
 侵入する蚊にとっては、特別警戒区域
 ペンタゴンである。
 なのに、やられた。
 繰り返すが勤務中に。
 いったいどれだけ上の空を決め込めば、そんなことになるというのか。
 高度はあれか。GoogleEarthか。
 おそらくは萌え系のロリロリっとしたのが、スク水一丁で大気圏突入を目論んでいたのに違いないのだ。ザクとのバトルの果てに。
 摩擦熱で、ちょうどスク水だけが焼き消えるような、おおかたそんなシチュエーションだろうよ。

 
 などと気をそらしてみたのだが、やはりかゆいものはかゆい。
 アースノーマットをセットしておいたはずなのに、いったいどうしてよと。
 すわっとばかりに布団を蹴って、その原因究明にのりだしたら最後、目が冴えてしまうに違いない。
 すれば蚊の思う壺ではないか。
 けっ。
 その手にのるかっ。
「ぷううぅぅぅん」 
 その手にのる蚊っ。
 ええい、うるさいわ。
 跳ね起きてかゆみ止めをつかった。
 部屋の隅に座し、明鏡止水の境地でホシを捜す。





 捜す。


 たしかこれと似たシーンがあった。
 夏目漱石の『我輩は猫である』に。
 神出鬼没のねずみを退治してくれようと、猫『我輩』が、家の土間を見張るくだりだ。
 猫は、それを日露戦争の海戦になぞらえていた。
 島国日本を守るのは東郷平八郎元帥率いる艦隊、わずかにワンセット。
 それっぽっちで国の360度を警戒しなくてはならない。
 ロシアの大艦隊がいったいどこから襲ってくるのか、彼らが決死のおもいで予測したように、猫は息を殺してねずみを待つのであった。

 
 嗚呼、掻きたい。


 けど、リベンジもしたい。
 しなきゃおちおち眠れやしない。
 野蛮?
 いや、いっそ復讐なんざ、できなくともいいのだ。
 譲歩の叩き売りである。
 本当にこわいのは更なる被害の拡大のほうである。
 許しはじめたら、きりがないから。
 こうなったらあれか。いよいよもって最強の拳法を出すか。
 攻撃しない、守るだけのケンポーNo.9を。
 アチョーッ、と。
 すれば、さすがにもう刺さんだろう。
 ノーマットはむろんのこと、叩きもしないし、殺虫剤だって使いませんよと。


 あやまちはくりかえしませぬから。


 そう思っているあいだにも、刻々とどこかで血を吸いつづけていたとしても、対話しましょと。
 どうなんだ、蚊。




 嗚呼、掻きたい。




 ☾☀闇生☆☽