にしても、今回の事件は現代の縮図だと。
まことにもってベタではあるが、そうつくづくと。
犯人象そのものはむろんのこと、あれだけの大勢のなかで、ひとりとして立ち向かおうとするものが現れなかったということも。
事件後のマスコミと、そこに群がった心無い野次馬。
ひっくるめて残念だ。
9.11のあのジャックされた旅客機の中で、団結した乗客たち。
それに比べて電車内レイプを黙殺したあの事件。
あるいは西鉄バスジャック。
いろんなものが頭をよぎった。
ひょっとすると我々は、暗黙の連帯をすでに放棄してしまったのかなとまで思った。
自分が立ち向かったとしても、それに続いて周囲の他人たちが加勢してくれるという確信が、お互いに持てない。
個性を尊重するとはいいながら「人それぞれ」という相対化が、正義観すらばらばらにして。
極度に粘着を忌み、連帯を嫌って、着かず離れずのドライな関係。
そのドライとドライの谷間にぽっかりとあいた、孤独。
保身の呪文「命あってのものだね」と、それが生む諦観。
ニヒリズム。
そのくせ自分個人の窮地には、それまで『おせっかい』としてきた粘着を『優しさ』と解釈してのける。
むずかしいね。
けど、俺たちはまずその現状で、どうにかやりくりしていかんと。
あ、そうそう。
まえにも書いたけれど、
こういう犯罪をやらかすその根拠の短絡化をみるに、いつも思う。
その葛藤の薄っぺら。
ドストエフスキーの『罪と罰』は、もう通用しないのかな、と。
んなバカな、と思いたい。
☾☀闇生☆☽
追伸。
連帯。
その距離感が、そして加減のバランスが難しいところである。
近づきすぎても、遠すぎても。
まあ、韓国での今回のデモのようなことは、もうこの国ではありえないのかな。