壁の言の葉

unlucky hero your key


「トイレ貸してください」


 なんて、
 商店で用を足したことあります?
 トイレ「ご自由に」の店が増えたのは、ここ数年のこと。
 そのほとんどがコンビニである。

 
 人の住むところ、そこに必ずコンビニがあるもので。
 都会ならビルの谷間にひしめきあって、
 弁当メニューの賑やかさを、
 おでんの味を、
 バイト店員の愛想を競いあっているのであーる。

 
 そこまで認知されたのだ。
 きわめて公共的ではないか。
 ならばその界隈にとっては、より『公衆』的な一面も兼ね備えていてくれると、ありがたいわけで。
 なんせ町が町らしくあるための、必要不可欠物件だもの。
 で『公衆』とくれば『トイレ』だろう。
 どうしたって。
 いまでこそ古めかしく、なんか不衛生なイメージの言葉だが。
 食うものを提供するのだ。ならば出すところだって貸してくれてもよさそうではないか。
 出もの、はれもの、ところ構わず。
 眠らぬコンビニがその管理をするとなれば、あの薄暗いイメージだって払拭されて、防犯上も好ましいはずで。


 というわけで、
 コンビニの客用トイレは、いまや標準装備とあいなった。
 各社はトイレの清潔っぷりまで競いあうことになったのであーる。


 んがしかし、
 ここまで公共めいてくると、とたんに利用者の品位が下がるのも、世の常でございまして。
 貸してあたりまえ、と。
 どうせタダだし。
 まあ、
 いちいち店員にことわらなくなりますわな。
 いくら「ご自由」といっても、利用される側からすれば、ひと言あったほうが気分がいいに決まっているのだが。
 でだ、
 コンビニのそれが公衆トイレ同然になるってえと、他の商店もそうしてあたりまえ、と。どうしたってなるわけでございます。

 
 ここでひとつチェックしておくべきなのは、トイレの位置なんですな。
 トイレOKの商店というのは、トイレが独立したつくりになっているもので。
 んで、トイレNGの商店は、控え室や貴重品置き場と一体だ。
 一目瞭然。
 だから、なにもケチで断っているわけじゃあないのよ。
 町の個人店が、そのために改装だなんて、できっこないのっ。


 かつて働いていた商店がまさにそれで。
 トイレを希望されるたびに、申し訳なくお断りしていた。
 すると、
「なんで?」
 と。
 これ、答え様がないんです。
 まっとうに説明すれば「俺を疑ってるのか」と。こじれる。
 実際、何度かこじれた。
 挙句、
「俺の目を見ろ」
 と。
 隣にトイレOKのコンビニがあるにもかかわらずだ。店員と見つめ合いたがるんだ。
 なんせ控え室には顧客情報のファイルが、ふんだんにあるのよ。
 どーよ。
 店員の私物も、在庫も、売上も、食べかけのポリンキーだってある。
 売り場でかかえたもろもろの鬱憤だって、そりゃあ転がっている。
 そこへ不特定多数だなんて。
 ほかのお客さんからしても、イメージ悪い光景でしょ。
 かといってトイレにまで店員が付いていくわけにはいかんし。カドが立つし。
 それでも泣く泣く、半ギレのお客さんに貸したりすると、もういけない。
 決まってそれを見ていたほかのお客さんが、
「わたしも」
 なんてことになるんだな。


 だもんだから、店は悪名高き『マニュアル』のせいにするのだ。
 結局、それが一番スムーズなのである。
 貸しちゃいけないことになってます、と。
 店員としては、そんな野暮なことまで言わせんでくれ、の心なのだが。

 
 さてこの『マニュアル』だ。
 こればっかりは功罪のついてまわる言葉で。
 しかしながら、良いマニュアルには先人の経験で得た知恵が詰まっているもので。
 使う側が、その真意を読み取りつつ行動すれば、こんなに心強いものはない。
 鬼に金棒。
 S女にバット。
 そこはチームプレイでございますから、ひとりひとりがいちいち考えながら動いていたんでは、にっちもさっちもいかないことがままあるのだし。
 要は、おばあちゃんの知恵袋、ですわ。

 
 自分のあたまで考える。
 それは大切なことだ。
 うん。
 けれども、それすなわち世界に対して尊大に構えよということではない。そこに気をつけんとね。
 事あるごとに自分のなかに鎌首をもたげる、
「なんで?」
 の背景に、手前勝手が鼻毛をのばして、のうのうとあぐらをかいていたんじゃあ、たまらない。
 ましてや人生の良きマニュアルの役割を果たしていた宗教感覚も、慣習も、その手前勝手な鼻毛野郎の合理に日々駆逐されていくばかり。
 無敵の鼻毛なのである。


 なんで(無闇に)人を殺しちゃいけないの?


 なんで犯しちゃだめなの?


 鼻毛はのたまうさ。
 それに対してどんなに理屈を重ね、正論で説いたとしても、その行き着くところは、
「だめなものはだめなんだ」
 と言い切れる、ある種の『マニュアル』だろう。
 それは時代も、
 そして個人すらもこえて、代々リレーしてきた知恵袋である。
 理屈なんてものは、たかだかいち個人の発信でしかないのだから。
 もうね、ちっぽけ。鼻毛はちっぽけなんだ。
 『無知の知』を引っ張り出すまでもなく、己の矮小をどこかで自覚しなければね。鼻毛のび放題になっちまう。
 無論、それは卑屈になれということではないからね。
 
 
 あのね、
 というのもね、
 ここ数日、心無い事件が続いてますでしょ。
 貧困でやむなく、なんて次元じゃないよね、あれは。
 犯行も、犯行後のふるまいにも、連中に畏れがない。
 身の丈を超えたなにごとかにたいする、畏怖という意味のね。
 せいぜいのところルールとしての法律は意識してるんだろうけれど。
 たとえばドストエフスキーの『罪と罰』。
 あの主人公の苦悩なんか、もう通用しないんじゃないのか、と。
 これは相当にさびしい。


「なんで?」の自由。
 言葉とは裏腹に、何も考えずに発信されることが多いのでは。
 えてして我を通す呪文になりがちだから、その我に対してもまた、
「なんで?」
 と警戒せんと。
 うん。

 
 自戒も込めてね。
 のたまったよ、と。




 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 疑問なんだが。
 妹殺害は当人で、その遺体の損壊は別人格って、あの判決。
 で、
 その無罪放免の別人格とやらは罰せられず、矯正もされず、当人の刑期が終わればまた社会へ放たれるの?