以下、のたまう。
平和の祭典だぞ、と。
たしか芝居『キル』の感想でも触れたのだが、繰り返してしまおう。
その、いわゆる『平和』とかいうケッタイな概念。
それは、国柄なんかによって違うぞと。
それが当然だぞと。
なのに自分にとっての『平和』ばかりを押し付けるから、そこに争いがおこるのであって、という。
ありていに言ってしまえば、あたしの考える平和と、あなたが考える平和とは、それを具体化するときに、多かれ少なかれ衝突すんだぞと。
歯磨きは、朝めしの前か後か。
ってとこからしてずれるんだぞと。
ましてや国や民族がちがえば、そのギャップは、とてつもなくでっかくなるわけで。
そこへきてだ、
そんな漠然とした『平和』をただ連呼するなんてのは、火に油というものでしょうに。
案の定、聖火の炎はあらそいの火種として、グローバルに、この星をへめぐったのであーる。
これまで、あたしたちがチベットの問題に無関心でいられた理由は簡単だ。
そこで繰り返されてきた暴力を耳目にしなかったから。
それだけ。
隠されていた、ということすら、知らずにいた。
屠殺の現場を目撃していないからこそ、肉を食べたり、あるいは簡単に残したりができるようなもの。
たとえば婚姻も、チベット♂と中国♀のそれは認めず、逆はゆるすのだという。
これだけをとっても露骨な根絶やしだ。
つまりは民族浄化ではないのでしょーか。
無論、信仰の自由はない。
ダライ・ラマの肖像は、持っているだけでしょっぴかれてしまうし。
んで、
そうした上ですすめられる漢人の移住政策なのだ。
彼らは神聖なる仏教寺院のまわりに、観光客目当ての売春宿などを乱立させる。
おかげで豊かになっただろうと言うのは、それでうまい汁にありついた漢人のほうで。
とまあ、これらの『暴力』は、そとには見えづらい。
規制もあるのだろうが、露骨をかませば、テレビ映えがしない。
他方で、聖火リレー中継での『暴力』は、わかりやすいと。
刺激的で、テレビ映えがすると。
だもんだから、騒ぎ立てるんだ。
そこはやはり、単純なのである。
リレーが『平和』的に終わることが、どれだけ平和的でないか。
彼の地での暴力の経緯があって、今リレーへのデモなのである。
彼の地への封殺あっての、平和の祭典の開催なのである。
デモや蜂起がなかったならば、我々は無知のまま、弾圧の片棒をかついでいたのだ。
なんと暴力的な。
このように、あたしたちゃ常に映像が喚起する印象に、流される。
で、その習性は9.11からまったく変わっていないのである。
ワールド・トレードセンター崩壊の映像は、刺激に満ちていたぶん、視聴者の想像力をいとも簡単にフリーズさせた。
ために、共感も同情もしやすかった。
他方で、それ以前から着々と進められてきた中東への文化的・文明的な侵略というものは、見えづらいわけで。
テレビ映えがしないわけで。
ましてや、空爆によるアフガン報復と、イラク侵略の惨状は、報道が規制されたせいで想像のとっかかりもありゃしないと。
チベットの蜂起を受けてダライ・ラマは、それまでの中国のふるまいを「文化的虐殺」と批判した。
うん、これも見えづらい。
想像力が要る。
しかし、この言葉の重みは「生きてるだけでまるもうけ」的な負け犬根性には、想像しにくいものだ。
生きるが勝ち。
それはたちまち、逃げるが勝ち、に変質しやすく。
利己主義やら損得勘定をまるまると肥らせる。
実際、電車内でのレイプや、競輪場の送迎バス車内での殺人なんてのがあった。
この国で。
あれを黙殺(黙認?)した同乗者たちの胸には、おそらくはそんな「命あってのものだね」が作用していたはずで。
ただ生きている。
安全に。
ぬくぬくと。
それこそが幸せであると、戦後ずっと思い込まされてきましたから。
無理もない。
んが、
実はそれだけでは、人は幸せになれんのだ。
逃げた自分からは、一生逃げ切れない。
つまり、活きられん。
おそらくは、そこなんだ。
そこにあるんだ、チベットの痛みは。
100%誰かのために生きる、
だなんて釈迦やキリストでもない限りどだい無理な話だろう。
かといって、100%自分のためだけに生きる。
いくら個人主義が吹き荒れているとはいえ、そこまで我々は強くなれないのだな。
うん。
では、『ただ生存している』以外に、いったい何が必要なんだろうか。
連日、硫化水素で命を絶っていく人たちは、いったい何を見失ったのだろうか。
純粋に生きているだけで幸せだ、というのが本当なら、そんな愚かなことはおこらないはずではないか。
ましてや、チベット人は蜂起しないのではないのか。
いまや損得勘定と実力主義のご時勢である。
胸を張って『利』を求めてオッケーの時代だ。
しかしだ、
待てよと。
そうできるのも、『利』の土台に『理』あってのことではないのか。
というのも、最近、特に思うのだ。
やれ、警察や、自衛隊や、官僚や、公務員の腐敗が、やたらと報じられるじゃないですか。
そりゃ嘆かわしいし、噴飯だ。
あたしなんざ鼻から吹いちゃうよ。
けどね、
彼らは本来『理』につく人々でしょ。
換言すれば、出来高制ではない人たちでしょ。
そうしちゃいけない人たちだ。
普段は『利』を求めるくせに、どういうわけか彼らには『清貧』を強いるんだな。あたしたちゃ。
けれども、かつてはそれで良かったのだ。
その捨ててくれた『利』の埋め合わせにと、我々は『敬意』を差し出したのだから。
清貧と品行方正への見返りとして。
正直者がバカを見ないようにだ。
なんせ学生にすら、昔は「さん」づけしていたのだ。
その、これ見よがしの敬意の表明が、彼らが利に走らんようにするプレッシャーの役割にもなっていた。
ところがだ、いまはそれすらケチるんだな。あたしたちゃ。
『利』にあらずと。
敬意がはぐくむのは、尊厳。
プライド。
いまやこの国では風化しつつある。
これら『価値』がないがしろにされていき、『利』と『命』だけが残った。
このふたつを足せば、すなわち『私腹』。
もしくは『保身』ができあがって当然なのである。
念のためあえて繰り返すが、人は完全な『無私』にも『無欲』にもなれっこない。
けれど、だからといってそこに開き直ってしまったら『価値』も『目的』も見失う。
正邪すらなくなる。
そうなれば、
踏み切りに侵入する自殺志願者を、命をかけて救おうとする勇敢な警察官も、いなくなってしまうことだろう。
文化的『虐殺』。
そう表現せずにはいられない、痛み。
それをわれわれが想像するためには、われわれにとっての、本当に守るべきもの。
それを問うべきかと。
そして、大切なものほど、きっと『見えづらい』ものなのだと思う。
以上、しがないエロDVD屋の、たわごととして。
☾☀闇生☆☽
追伸。
スポーツ・ジャーナリストの二宮清純氏が嘆いていた。
ボイコットする気骨のある選手はいないものか、と。
16日付の産経新聞誌上である。
とかく専門家というものは、その専門のフレームの中だけで思考しがちである。
と、思っていただけに、胸のすく思いがした。
スポーツと政治は切り離して、というスローガンほど政治利用されるものはない。
選手は今、
『価値』を、どこに見出しているのだろうか。