どうもしっくりいかないのである。
どうなんですか、あれ。
すわっ、とばかりに駆け出して、
われ先を争い、
鼻をふくらませて、
「死刑っ、死刑っ」
連呼してるあの騒ぎ。
おそらくは、その足の速さを基準に選ばれた面々だぞ。どうせ。
そこはもう決めつけさせてもらおう。
なんせアナウンス・スキルなんかまるで要らないのだ。
「死刑っ、死刑っ」
全力疾走した後に、そう連呼できるかどうかだ。
そこに必要とされるのは、脚力と肺活量のみ。
なんつーか筋肉番付だ。
本業そっちのけだ。
断っておくが、その判決自体に異議を申し立てているのではないのであーる。
たとえ正真正銘の極悪人への判決であったにせよ、ああも騒ぎたてるものだったろうか。
この国の国民性というものは。
まるで鬼の首をとったような騒ぎではないか。
ワールドカップのゴールシーンじゃないんだから。
死刑がふさわしい人が、たとえそのとおり死刑なったとて、粛々と。
そう、粛々と。
それが「死んだら皆神さま」の国に生きる人々のふるまいではないのかな。
(蛇足をあえてかますが、
この『神さま』をGodとして誤訳してしまったことからおこった誤解も多い。厄病神、貧乏神、いろいろあるっつの。)
譬えはまずいが、新ローマ法王の決定は、煙突からの煙で発信されましたね。
さすが、歴史の知恵が効いてます。
今回のは少なくとも、コンマ一秒を争う種類のニュースではないのだから、伝達方法を考え直すべきではないのかなと。
それが被害者への配慮にもなると思うのだ。
「死刑っ、死刑っ」
あれではまるでお祭り騒ぎだ。
いったい何がうれしいのか。
で、そんな醜態も、いまや即日、世界中に配信されかねないご時世なのであーる。
判決の瞬間というものは、亡くなった被害者への追悼の瞬間でもあるわけじゃないっすか。特にのこされた者にとっては。
それをあんな騒ぎにしちゃってさ、もお。
コンマ何秒を争っちゃってさ。
ちなみに死刑、について。
死刑でないとすると、その下は無期懲役ですか。
現在の無期懲役が実際のところ何年の刑か知りませんが、あまりに落差がありすぎてやしませんかねえ。
模範囚なら、結局のところ出てこられるわけで。
終身刑が無いっていうのが、なによりねえ。
小学校に侵入し、
包丁で殺しまくって、
それで犯人自ら死刑を望んで、
はいそうですかとばかりにそのとおり死刑にされたのがいましたね。
生命至上主義だからこそ、憎悪はその尺度をひっくり返すわけで。
ようするに死刑が、極刑となる。
けれども私は正直、『死』という自由に逃げられたと思った。
そう、まんまと逃げられたと。
たとえば、
情報を絶たれて、
隔離され、
誰とも意思の疎通ができず、
病気にかかれば、適切な処置で治療され、
食事も、生存するのに最低限のものは保障され、
ただ、無意味に生かされる。
それに飽いて舌を噛もうが、ただちに処置されて、また生かされる。
適度な運動までさせられて。
それでは発狂という名の楽園に逃げられてしまうから、聖書やら仏典のたぐいで正気を保たされる…。
そして理性まで植えつけられたうえで、やはり隔離されて、生かされる。
と、この生かされるということほど、死刑をこえる苦痛はないと、あたしゃ考えている。
塀の外でも、これからは、そうなりつつありますが。
なぜ武士が、切腹を栄誉ととらえたか。
はりつけ獄門を不名誉ととらえたか。
どちらも同じ『死』であるのにだ。
現在の刑では、死は死として一絡げである。
死生観は、間違いなく衰えているのだと思う。
☾☀闇生☆☽