壁の言の葉

unlucky hero your key

Do The Right Thing!!!

Do The Right Thing.



 
 ERYKAH BADUのシングル『ハニー』のPVがyou-tubeにアップされている。
 舞台はアナログ盤時代のレコード店
 客が手に取る名盤のジャケットに、歌うERYKAHがまぎれているというもの。
 引用されているのはどれも有名なジャケットばかりだ。
 たとえばビートルズの『Let It Be.』のを真似たりと、彼女の茶目っ気がまた可愛くて。
 まぎれも無く、偉大な先人たちへのリスペクトである。
 そして、それを強く感じたせいだと思う。
 久しぶりにスパイク・リーの映画が観たくなったのだ。
 で、観た。
 以下はその代表作『ドゥ・ザ・ライト・シング』について、書く。
 未見の方にとっては、ネタバレとなるでしょう。




 スパイク・リーへの評価というものは、世間的にどの程度なのだろう。
 当人はタイトルの冠に『Spike Lee Joint』とクレジットすることにこだわってきた。
 が、たとえばスピルバークや、ティム・バートンのそれのように、監督の名前がブランド化するまでは至らなかったようで。
 それは彼の作品の宣伝のされかたに、如実に現れてもいる。
 すくなくとも日本ではだが。


 けれど、その功績はとてつもないわけで。
 彼が映画界に旋風を巻き起こさなければ、
 きっとディンゼル・ワシントンも、
 ウェズリー・スナイプスも、
 サミュエル・L・ジャクソンも、ああまで化けなかったといっても過言ではなく。
 そもそも彼の出現以前は、黒人をメインに据えた映画というものが、あまりなかったわけで。少なくともメジャー扱いされないものがほとんどだったし、質の面でもはっきりと見劣りがした。言うなれば、そこをたしなむ一部のマニアのものだった。
 ましてや黒人側からみた人種問題など、もってのほかで。
 たとえ白人メインのメジャー映画に出演したとしても、黒人はきまってゴロツキが相場であった。
 とりあえず射殺される強盗とか。
 ちゃらちゃらしたヤクの売人とか。
 それはまるでショッカーのような。
 乱暴な言い方をすれば、スパイク・リーはそれを変えたのだ。
 変えることによって、観客の偏見も取っ払ってしまった。


 余談となるが、レンタルビデオ屋に勤めていた当時、
「なんか、おすすめなーい?」
 と常連さんに訊かれてることがよくあった。
 いわば『おまかせ』である。
 こちらのセンスに全幅の信頼を示していただく、至福。
 嗚呼それなのに、黒人映画、東アジア、それと日本映画はどうにもこーにも忌避されたのである。
 まずそのパッケージを持っただけで、取り付く島もない顔をされる。
 もちろん、理屈ではわかってらっしゃるはず。だが、こと娯楽となると、理性でどうこうできるものではないわけで。
 それがいまや、どのジャンルも当たり前の時代になっているではないか。
 少なくともこれだけは言える。黒人映画に関しては、その偏見を解くのに、スパイク・リーの貢献は大きかったと。


 話しを戻すっす。
 大きいのはその功である。
 アメリカ黒人を、喜怒哀楽と、それぞれに問題を抱える普通の人間として描いた。
 そして、そんな彼が一躍世界に名を馳せたのが、この作品なのである。
 彼は自分達が直面している人種問題とその日常を見つめ、丁寧に文化を描き、なおかつエンターテイメントとして仕上げてみせた。
 黒澤明、Said。自分たちの問題と真摯に向き合って作ったものこそが、世界に訴えることができるのだと。
 なるほど、描かれているのは米国の黒人文化であり、
 そのありふれた日常のなかでの葛藤であったりする。
 であるにもかかわらずそれらは、我々日本人の胸を、
 ずどんっ、
 ダイレクトに打ってくるのだ。


 この年のアカデミー賞の式典がおもしろい。
 最優秀作品賞の発表でのこと。
 プレゼンテーターとして現れた女優キム・ベイジンガーが、手渡されたノミネート作のリストを読み上げて一言、
「どうして『ドゥ・ザ・ライト・シング』が入ってないの?」
 やらかした。
 あの女、やらかしよったのだ。
 それに喝采でこたえてみせた会場もまた、ラヴリーで。
 この逸話は、当時この作品がいかに歓迎されたかの証左でもあり、当時の黒人映画に対する協会の敷居の高さを物語るものでもある。
 鼻を明かす、とはこのことで。
 価値ある落選といっていい。
 この布石が、のちにディンゼルやハル・ベリーがそれぞれ主演賞を受けることに繋がるのだから。


 さてさて、物語。
 舞台は酷暑のニューヨーク。
 とある下町の黒人居住区。
 横丁の個人FM局のDJラブ・ダディが、そのブースから見渡す一角だ。
 ちなみにこのDJ、まだあまり知られていなかった頃のサミュエル・L・ジャクソンが好演している。
 まず物語の拠点として、イタリア人親子が経営する老舗のピザ屋がある。(ダニー・アイエロジョン・タトゥーロがこれまた好演。)
 向かいには、勤勉な韓国人夫婦が営むちっぽけな雑貨屋があり、
 路上では、黒人はもちろんプエルトリカンの若者たちがたむろしていて。(黒人の輪の中に、後にバッドボーイズでブレイクするマーチン・ローレンスの姿も)
 まさに米国の有色人種社会の縮図といっていいだろう。
 スタイルは、群像劇というのだろうか。特別な主人公は置かない。
 人物はどれも魅力的で、
 たとえば、腕一つで切り盛りしてきたピザ屋の頑固親父。
 黒人を嫌い、イタリア人街に店を移したがるその息子。
 大音量のヒップホップで『LOVE&HATE』を訴える大男、レディオ・ラヒーム。
 一本の缶ビールにありつくために、毎朝ピザ屋の掃除を買って出る老人、メイヤー(市長)。
 そして、その彼が心を寄せる誇り高き老女、マザー・シスター。
 街頭でキング牧師マルコムXのメッセージを説き、その写真を売る吃音の男、スマイリー。
 彼らのおりなすアヤを、ピザ屋の配達人ムーキー(スパイク・リー)が狂言回しとして編み上げていく。
 この構造。電車バカの六ちゃんを狂言回しに、貧民区の悲哀を描いた黒澤の『どですかでん』を思わせやしないか。
 スパイク・リー自身がその影響を認めたという話があるが、言われてみれば原色にこだわった色づかいなども、ひょっとしたらと思えるのだ。


 公開時は、その演出やテンポの良さにファンは『斬新』やら『今』っぽさを見出していたものだったが、時を経て、それらのお飾りはどうやら磨耗したようで。
 観なおしてみれば、そこにきちんと人間が浮かび上がっているのである。
 奇をてらわず、スパイキーはまっとうにドラマを撮っている。


 好きなシーンを記そう。
 メイヤーとマザー・シスターの老いらくの恋もいい。
 なんせ、いい。
 が、当時もっとも印象に残ったのはDJラブ・ダディの言葉だった。
 それも固有名詞の連打。
 それは真夏日が始まろうという気だるい朝だ。
 彼はマイクに向かって延々と黒人ミュージシャンの名を列挙し始める。


 B.B.キング、マイルス・ディヴィス、アレサ・フランクリンシャーデーセロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、ランDMCマイケル・ジャクソン、プリンス、チャーリー・ミンガス、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーン、デューク・エリントンパーラメントファンカデリックティナ・ターナールイ・アームストロング…etc。


 ジャンルも世代もすっ飛ばして、順不同でずらずらと並べ立てていく。
 ランDMCB.B.キングを同列にしているのである。
 いったい何事かと思っていると、その挙句に彼はこう締めくくるのだ。
「あなたたちのおかげで我々は毎日の暮らしに耐えていける」


 最初観たとき、感嘆。
 二度目で、じんときた。
 たとえばこれが日本ならどうだろうか。
 古賀正男、少年ナイフはっぴいえんど屋敷豪太服部良一美空ひばり細野晴臣筒美京平シュガーベイブ吉田美奈子、Char、秋吉敏子武満徹ケン・イシイを同時にリスペクトするようなものか。
 ありえるだろうか。


 実はその先人への敬意の点なのである。
 ERYKAHを聴いていて、スパイク・リーが観たくなったのは。
 先人への感謝を抱く者は、他人がその先人に示す敬意を、容易に想像することができる。
 親への感謝を抱くものは、他人がその親に抱く思いに、共感することが――。
 同じく、友への感謝を抱く者は、
 祖国への、
 自然への、
 神への、
 神々への、
 といった具合に、
 遠くで起こっていることを想像する起点は、いつも身近にあったりするもので。
 言うまでも無く、あたしゃ世界の屋根裏の民をあたまに置いて、言っている。


 最後に、
 この映画で話題になったエンド・ロールを。
 有名な黒人指導者キング牧師と、マルコムXの言葉が、そこに提示される。
 穏健派のキングに対し、強硬派のマルコムと解釈される双方である。
 しかし後年、二人は手を取り合って理解を示し合った。
 先述の吃音のスマイリーが熱心に売り歩く写真は、そのときの貴重なツーショットである。




「人種差別に暴力で闘うのは愚かな事である。
暴力は破壊に到るらせん状の下り階段で、『目には目を』の思想はすべてを盲人に導く。
暴力は敵の理解を求めず敵をはずかしめる。暴力は愛でなく憎しみを糧とし対話でなく独白しか存在しない社会を生む。
そして暴力は自らを滅ぼし生き残った者の心には憎しみを、暴力を振るった者には残虐性を植えつける」
 マーティン・ルーサー・キング



アメリカ人には善人も多いが悪人も多い。
権力を手中に握り、我々の進む道を阻んでいるのは悪い奴らで、この状況を打破するために闘うのは我々の権利である。
私は暴力を擁護する者ではないが、自己防衛のための暴力を否定する者でもない。
自己防衛のための暴力は『暴力』ではなく、『知性』と呼ぶべきである」
 マルコムX



 繰り返す。
 世界の屋根裏の民をあたまに置いて、言っている。


 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 あった、あった。
 そういや『はっぴいえんど』の1stのライナーノーツ。
 影響を受けたアーティストの名を書き連ねてあった。
 ミュージャンだけじゃない。
 馬生、志ん生文楽なんかの噺家
 乱歩、足穂、賢治などの物書き。 
 手塚、つげ、諸星ら漫画家まで。
 うん。
 なるほど、歴史に残るべくして残るわけだ。