チベットで、独立を望む僧侶たちが蜂起している。
折しも政府が威信をかけたオリンピックが眼前に迫った、このタイミングでだ。
明らかなのは、彼らの強いられてきた理不尽を世界に訴えるには、まさに今しかないという切実。
狙いすましたのだろう。
そのために日々の屈辱に耐え、
忍び、
待ったのだろう。
この民族問題(宗教問題?)をひた隠しにしてきた側からすれば、これほど嫌なことはないわけで。
そりゃそうだ。
隣近所を招待して誕生日のパーティーをおっぱじめようって時に、屋根裏部屋に監禁しておいた少女が反乱をおこすのだから。
少女にしてみれば、まさにそのタイミングしかないだろうに。
なんせこれまでは、
どれだけ声をあげても例の反日デモに注意を逸らされてきたわけで。
少女の絶望たるや、いかほどだったことか。
本来温厚なはずのお坊さんたちが、なぜにそこまでしなくてはならないのか。
そこまで追い込まれているのか。
常にお隣の顔色をうかがうばかりのこの国では、おおっぴらに報じられることはなかったわけで。
みんなが大嫌いな『世間体』。それを気にしてきましたから、この国は。
はい。
大義そっちのけで。
だって、き○たま握られてますもの。
いやん。
「つまらないものですが、よろしければ、どうぞ」
って、握らせてきましたもの。
だいたいダルフールの問題にしろ、なにゆえにこれほど封殺されてるの?
マスコミを支えるスポンサーの問題?
どの企業も『かの国』なしには、やってらんない?
てことは我々消費者の損得勘定も、加担してるわけ?
オリンピックのボイコットを論じる自由は、いったいどこに?
選手個人の自由やらなんやらを国家が潰すな、的な見方で前回のボイコットは論じられましたよ。
ああ、そうでしたよ。
国家に翻弄される、か弱き個人と。
選手の悔し涙の映像とセットで。
おかわいそーにと。
けれどね、
それもわかるけれどね、
個人が、
チームが、
それもそのボイコットが世界にそこまで力を及ぼせるというのもまた、えらいことではないでしょーか。
ボイコットという、力。
「自分を褒めてあげたい」
だなんて言って帰ってくるために出場されるよりは、ずっと高尚な気がしますが。
ましてや、事は大好きな『平和』のためだ。
そこに、個人を捧げるっつんだから。
いやなに、
それを言ったら、アトランタもそうあっても良かったのだけれど。
伝説的チェリスト、パブロ・カザルスはかつて、独裁に反対して演奏活動を休止したことがあるのだ。
古今東西に平和を訴えるコンサートは山ほどある。
おそらくは、数えきれない。
んが、彼が平和を願って『演奏しない』ということが、無言の恫喝になったというんだから。
どうすか。
ちなみに宗教が反国家的であるのはあたりまえである。
んが、それすなわち平和的でないかどうかは、別の話だろう。
宗教は『非科学的』であるとして、
また『アヘン』であるとして排除してきた国と、宗教国チベットが相容れないことぐらい、明白だとおもうのですがねえ。
レイプでは、決して自分のオンナにはならんと思うのだが。
仮になったとしても、そんなオンナを愛せますかね。
オンナの愛を勝ち得ますかね。
尊敬し合えますかね。
ついでに、
マーチン・スコセッシ監督が撮った映画に『クンドゥン』というのがある。
これは今なお母国への入国を許されない流浪のチベット仏教最高指導者、ダライ・ラマの半生を描いている。
舞台がチベットであるのも手伝ってか、スコセッシ臭さは、微塵もない。
きっと世界へ問いかけようという思いでとったのに違いなく。
事が事だけに表現者としてのエゴを、できるだけ控えたのかもしれない。
そのぶん娯楽色は薄いが、この辺の問題を映画でおさらいするのには、最適かと。
それと、ブラッド・ピットが主演した『セブン・イヤーズ・イン・チベット』。
チベットを訪れた実在の登山家をモデルにした映画である。
これもお勧め。
二作ともチベット侵略に触れております。
是非。
☾☀闇生☆☽